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ロマンと弥勒と阿修羅(PART 2 OF 3)

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ロマンと弥勒と阿修羅(PART 2 OF 3)







基親王の死は、聖武天皇一家と藤原一族に深刻な悩みをもたらしました。
上の系図で見るとおり、聖武天皇の母親は宮子です。
聖武天皇の皇后は光明子です。
どちらの女性も藤原不比等の娘です。

実は、藤原不比等は持統天皇と組んで天皇家の“設計図”を描きました。
つまり、持統天皇の血を絶やさないような形で皇統を継続させてゆく。
その過程で、藤原氏の血を天皇家に取り込んでゆく。
上の系図は、正にその事を物語るような“証拠”となっているのです。

持統天皇から続いている持統皇統と藤原氏は上の系図で見るように強固な姻戚関係を結んでしっかりと結びついていたのです。

しかし、女帝など即位させずとも天智天皇と天武天皇の血を引く天皇後継者が他にも居たのです。
天武天皇には舎人(とねり)、長(なが)、穂積(ほづみ)、弓削(ゆげ)、新田部(にいたべ)、刑部(おさかべ)という6人の皇子が居ました。
天智天皇にも施基(しき)皇子が居たのです。
この皇子たちは上の系図の女帝たちよりも天皇になる資格が充分にあったのです。
しかし、持統天皇と藤原不比等はこの皇子たちを天皇にはさせなかった。

なぜか?

この皇子たちには持統天皇と藤原不比等の血が流れていないためでした。

しかし、すべてが持統天皇と藤原不比等の思い通りには運ばなかった。
聖武天皇と光明子の間に11年目にして生まれた男の子(天皇後継者)が満2才になる前に亡くなってしまったのです。
つまり、藤原氏につながる皇位継承権者が居なくなってしまったのです。

これは、藤原氏にとっては危機でした。
どうしたらよいのか?

まるで、天が持統天皇と藤原不比等の勝手な“設計図”を白紙に戻すかのように基親王の命を召し上げてしまった。
さらに、持統天皇と藤原不比等のわがままを懲らしめるかのように、皮肉にも天は聖武天皇の妃の県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)という女性に男の子を産ませたのです。
この子は安積(あさか)親王と名づけられました。

この親王は将来聖武天皇の跡を継いで天皇になる可能性が充分にあります。
しかし、藤原氏にとって、藤原氏以外の女性が産んだ親王が天皇になることは我慢がならない事です。

さらに、当時、他にも皇位継承権を持つ天武天皇の皇子の舎人親王と新田部親王が健在でした。
この皇子のどちらが天皇になっても、持統天皇の血と藤原氏の血はなくなってしまう。
藤原氏にとって、そういうことは絶対に許すことができないことでした。

すでに藤原不比等は亡くなって居ませんが、その子供たちがその当時、政治の実権を握ろうとしていました。
藤原4兄弟は額をつき合わせるようにして策略をめぐらせたのです。

こうなったら使える“駒”は阿部内親王しかいない。
何とかしてこの女の子を天皇位につかせることはできないものか?

そのためには光明子を皇后に昇格する必要がある。
そうすれば、光明子が中継ぎの天皇になることができるし、その娘の阿部内親王に皇位を譲ることもできる。
しかし、皇后位は皇族出身に限られており、藤原不比等と橘三千代の娘である光明子にはその資格がないのでした。

ところで、このようなことを充分に考えて、藤原不比等は聖武天皇には皇族の出身である妃をおかずに光明子を事実上の“皇后”として正妃の座に着かせていたのです。

藤原4兄弟は政治の実権を握る前に、考えねばならない強力なライバルが居ました。
それが、当時の政府のトップに居た左大臣の長屋王です。

長屋王は臣下の出の女性が皇后になることを認めないに違いない。
この際、“目の上のタンコブ”である長屋王を葬り去りたい。
藤原4兄弟の陰謀は、こうして実行されたのでした。

729年8月、長屋王の死を待ちかねたように光明子が皇后に即位しました。
すべては藤原四兄弟の思惑どおりに事が運んだように見えました。
ところが737年天然痘が大流行し、藤原四兄弟が全員死亡したのです。
人々は長屋王の怨霊(おんりょう)の崇りだと噂しました。

このように怨霊信仰はけっこう古くから日本にあったんですよね。
光明皇后も娘の阿部内親王もこの長屋王の崇りによって藤原4兄弟が亡くなったことを充分に知っていたはずです。

天平10年(738年)正月に聖武天皇は娘の阿部内親王を皇太子にします。
過去に女性が皇太子になったことは無く、異例の皇太子誕生でした。
光明皇后の娘でもある阿部親王は、このとき未婚の21才でした。

古代の皇族・貴族の娘たちは15才か16才で結婚しています。
光明皇后は、親王が生まれないために、皇位継承の最後の手段として、娘の阿部内親王を嫁がせずに内裏にとどめておいたのです。
基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后は“長屋王の崇り”だと思っていたことでしょう。

政治の実権を持っていた藤原4兄弟が“長屋王の崇り”によって死亡すると、政権は橘諸兄(もろえ)に移り藤原四家のうちの式家・宇合(うまかい)の子・藤原広嗣(ひろつぐ)は大宰小貳として九州に追われました。
一年半ほど管内豪族の動きや疲弊の深い農民の状態を観察し、あらゆる機会を捕らえ藤原広嗣は官人を誘い豪族をあおったのです。

“災害がたびたび生ずるのは諸兄のブレーンである玄?・真備が良からぬことをしているためだから、彼らを除くべし!”

藤原広嗣は聖武天皇に信書を提出し740年9月3日に挙兵しました。
聖武天皇は大野東人(壬申の乱で大伴吹負を破った近江側の大野果安の子)を大将にして一万七千の兵を動員したのです。
東人の適切な行動もあり2ヶ月で反乱を制圧し広嗣は捕えられました。

藤原広嗣の乱のあと、光明皇后の庇護のもとで頭角を現してきた藤原仲麻呂(藤原南家の祖・武智麻呂の次男)の後見する阿部内親王と、橘諸兄の後見する安積(あさか)親王に北家房前の三男八束(母が橘三千代の子である牟漏女王で諸兄の甥に当たる)と大伴家持もグループとして結束し、どちらを次の天皇にするか争いが生じていたのです。

744年正月11日聖武天皇は難波に行幸しました。
造営中止になった恭仁宮(くにきゅう)に藤原仲麻呂が留守官として残り、安積親王は脚の病で桜井頓宮(さくらいかりみや)より恭仁宮へ帰ったのです。
その二日後に安積親王は急死しました。
藤原仲麻呂の暗殺という噂が難波の朝廷に広まったのです。
しかし、この事件は仲麻呂を留守官から外すだけで終わりました。

安積(あさか)親王暗殺は、おそらく藤原仲麻呂独断で行われたものでしょう。
藤原氏のバイブルである“六韜”を愛読していた仲麻呂ならば当然やりそうなことです。
この兵書については次のリンクをクリックして読んでください。



『マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?』


聖武天皇も、光明皇后にも騒動を避けたい心があり、安積親王を担ぐグループに果断な行動をとる力が無かったから藤原仲麻呂を処分することができなかったのです。
しかし、この後、仲麻呂の思う方向へ事態は進んでゆく事を考えれば、仲麻呂の安積親王暗殺の嫌疑は光明皇后によって揉み消されたようです。
むしろ、その後、仲麻呂に活躍の場を与えられたことは、暗殺の“論功行賞”ではなかったのか?

天平勝宝元年(749年)に、48才の聖武天皇は譲位して太上天皇(上皇)となります。
皇太子の阿部内親王が即位して孝謙天皇となりました。
彼女はこのとき32才でした。
皇后でもない未婚の安部内親王が女帝になるのは大伯母の元正天皇につぐ2例目です。
これは持統天皇の“女の意地”が橘三千代に引き継がれ、それが三千代の娘の光明皇后にバトンタッチされた結果です。

阿部内親王は孝謙天皇となってから詔(みことのり)を出して次のように言っています。


私の母上の大皇后(光明皇后)が私にお告げになった。

「岡宮(おかのみや)で天下をお治めになった天皇(草壁皇太子を指す)の皇統がこのままでは途絶えようとしている。

それを避けるために女子ではあるが、聖武天皇の後をあなたに継がせよう」

このように仰(おお)せになり、それを受けて私は政治を行ったのである

SOURCE: 『続日本紀』


つまり、孝謙天皇の即位には光明皇后の指図があったことを述べているわけです。
父親である聖武天皇の影が極めて薄いのですよね。
この詔もちょっと異常ですよね。
聖武天皇が譲位したのだから聖武天皇の言葉として書くべきだと思いますよね。

一説には聖武天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を取ったとも言われています。
この孝謙天皇が出した詔には、その辺の事情が垣間見えるような気がします。
歴史書を読むと、聖武天皇は繊細で神経質な性格だったようです。

天平年間は、災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依しました。
いわば、現代流に言うならば、極めて人間的な人だったと僕は思いますよ。
つまり、藤原4兄弟などの策謀が渦巻く中で、政治に嫌気がさしていたと思いますね。
“長屋王の崇り”も、“藤原氏の一員”として充分に感じていたでしょうね。

聖武天皇は741年には国分寺建立の詔を出します。
743年10月には、東大寺大仏の建立の詔を出しています。
また、度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰しました。
このような聖武天皇の行動を見ると、意志の弱さが見えますよね。優柔不断です。

また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后とは異父兄弟にあたる)が取り仕切りました。
結局、聖武天皇は政治に見切りを付けていたのですよね。
それで、出家したのでしょう。
その気持ちが分かるような気がします。

それに引き換え女性たちの意志の強さは驚くばかりです。
特に持統天皇の強烈な執着と執念が目を見晴らせます。

持統天皇の相談役とも言える橘三千代がすごい人ですよね。
この人のもとの名は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)です。
三千代は持統天皇がまだ天皇になる以前に彼女の女官として仕えていたのです。
持統天皇の孫の軽皇子(かるのみこ)の乳母(めのと)だった人です。
三千代は皇族の美努王(みのおう)と結婚して3人の子供をもうけています。
早くから女官として内裏に仕え、持統天皇の信頼を得ています。

藤原不比等は持統天皇、彼女の息子の草壁皇子、さらにその子の軽皇子(後の文武天皇)に仕えていました。
この関係で橘三千代と知り合い、持統天皇の皇統を守る同志として二人の絆が生まれたのです。
三千代は美努王(みのおう)と離婚していますが、すでに二人は三千代の離婚以前から深い関係になっていたようです。





美努王は三千代と離婚する以前、694年に九州の太宰帥(だざいのそち)として九州に赴任していますが、妻の三千代はこのとき夫に従ってゆかず、都にとどまって女官として仕え続けています。
この年の暮れには藤原京への遷都があり、新都の華やいだ雰囲気の中で藤原不比等と三千代の不倫関係が深まってゆきました。
藤原不比等は女性関係でも精力的で、この時期に天武天皇の未亡人である五百重娘(いおえのいらつめ)とも親密になっており、695年に二人の間に藤原不比等の四男・麻呂が生まれています。
ちなみに五百重娘の父親は藤原鎌足です。つまり、五百重娘は不比等の異母妹でした。

『続日本紀』によると、石上麻呂の息子の石上乙麻呂(おとまろ)が藤原不比等の三男・藤原宇合(うまかい)の未亡人となった久米連若売(くめのむらじわかめ)と通じた罪によって処罰を受けています。
石上乙麻呂(おとまろ)は土佐国に流され、久米連若売は下総国に流刑になります。

藤原不比等の場合には大胆にも、かつての天武天皇の后妃であり、新田部皇子の母でもある五百重娘(いおえのいらつめ)を相手にして、子供まで産ませているのです。
ところが、何の罰も受けていません。

橘三千代にしてみれば、不比等に裏切られたような気がすると思うのですが、ヒステリーになるわけでもなく、大事の前の小事と割り切ったようです。
持統天皇のそばに仕えて厚い信任を得ていたので、その立場を利用して不比等の出世のために持統天皇へのとりなしに動いたようです。
このようなことを考えても、橘三千代が只者ではないと言うことが分かります。

感情的にならず、大事を見失わずに困難を乗り越えてゆく三千代の姿がはっきりと浮かび出ていると言えるでしょう。
深謀遠慮の藤原不比等と組んで持統天皇を取り入れ、橘三千代は三つ巴で持統皇統を継続させてゆきます。
女の意地と執念を感じさせますよね。





この阿修羅像は現在、興福寺国宝館に安置されています。
天平6年(734年)に光明皇后が母親の橘三千代の一周忌追善のために興福寺に西金堂(さいこんどう)を建立したときに、その堂内に奉安した仏像のうちの1つでした。

この仏像については、正倉院文書の『造仏所作物帳(ぞうぶつしょさくもつちょう』に詳しく書かれています。
この記録によると、作業が始まったのは橘三千代が天平5年(733年)1月11日に亡くなってから10日経過した1月21日です。
その一周忌にあわせて翌年の1月9日に完成しています。

日本では、“阿修羅”は“修羅”とも略して呼ばれ、“修羅場”などと言う言葉もあるように、猛々しい争いを好む神として受け入れられます。
阿修羅像は日本では普通3つの顔と6本の腕を持っている仏像として造られました。
阿修羅像の本来の姿は、肌を赤く彩り、髪を逆立て、三面の形相は容貌醜怪であり、目を怒らせ、口を大きく開き、牙をむき出して威嚇し、次に示すような不動明王にも似た怒髪憤怒(どはつふんぬ)の表情を示しています。


(fudou3.jpg)

ところが、興福寺に安置されている阿修羅像には、怒髪憤怒(どはつふんぬ)が基本であるにもかかわらず、この荒々しさや猛々しさが全く見えません。
この仏像が持つ本来の憤怒の概念とはおよそ縁遠い姿と表情を見せています。





その風貌は極めて内省的であり、自己抑制に満ちて、祈りの念さえ表れています。
少なくとも、不動明王のような怒りの表情は全く感じられません。
これはどういう訳なのか?

僕は、この仏像を観て、まずそのことが大きな疑問として気になり始めたのでした。

ただ単に、光明皇后が母親である橘三千代の一周忌追善のために奉安したとは思えません。
それでは、他に何があるのか?

結論を先に言えば、長屋王の怨霊を鎮めるためだと思いますね。

僕は上の阿修羅像に次のような“内なる精神”を感じます。

■ 静謐(せいひつ)
■ 哀感
■ きびしさ
■ 敬虔なまなざし
■ まなざしの中に込められた奥深い苦悩
■ 引き締まった唇に表れた意志の強さ
■ 清純でひたむきな思い 

このモデルになった女性は、聖武天皇と光明皇后の娘---当時16才の阿部内親王なのです。
光明皇后がこの像を造ろうと思い立った733年という年は長屋王が自殺に追い込まれた4年後です。
天平年間は、災害や疫病が多発します。
巷では、“長屋王の崇り”がささやかれ始めています。
橘三千代が亡くなったことも、“崇り”だとは思わないまでも光明皇后にとって不吉なモノを感じていたはずです。
藤原4兄弟が病気にかかって死ぬのは、さらに4年後のことですが、
基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后は“長屋王の崇り”だと思っていたことでしょう。

つまり、上の阿修羅像の感じている深い“内なる精神”は阿部内親王のものであると同時に
光明皇后の感じているもの、念じているものではなかったのか?

この奥深い苦悩の中には、阿部内親王と光明皇后の感じている女ゆえの情念の苦悩も込められているのではないか?
一体、その情念の苦悩とは?



『日本女性の愛と美の原点』より
(2006年5月28日)


 (すぐ下のページへ続く)


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