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冷血頼朝(PART 1)

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冷血頼朝(PART 1)




(yoritomo2.jpg)





デンマンさんは源頼朝が嫌いなのでござ〜♪〜ますか?



どうも好きにはなれない人物ですよ。

どうしてでござ〜ますか?

冷淡で、非情で、極めて自分よがりなところがあると思うのですよ。

たとえば。。。?

例えば『平家物語』に次のような場面があるのです。



(shigemori.jpg)

NHK大河ドラマでの平重盛

小松殿重盛のお子・丹後侍従忠房(ただふさ)は、屋島の戦の折、おちのびて行方も知れず姿を隠しておられたが、紀伊国の住人・湯浅権守宗重をたのんで、湯浅城にたてこもられた。

 (中略)

鎌倉殿の命により熊野別当湛増が、二、三ヵ月の間に八度攻めよせて戦った。
城兵は命を惜しまずに防いだので、寄手は毎回追い散らされ、熊野法師が数多く討ち死にする。
別当の湛増は頼朝公へ急使を走らせ、(略) と申し出ると、鎌倉殿は、
「(略) 城にたてこもる兵はさだめし山賊、海賊のたぐいであろう。
彼らの取締りをきびしくして、城に出入りができないよう口を固めて守るがよい」
と言われた。

その仰せどおりにすると、案のじょう後には一人も城に姿をみせないようになった。
頼朝公はなおも計をめぐらせて、
「小松殿重盛のお子がたの中、一人でも二人でも生き残られた者がおるならば、命はお助けしよう。
理由は池禅尼(いけのぜんに)の使いとして、私の命を助け流罪にしたのは、ひとえにかの内府重盛殿の芳恩によるからだ」

この計にのせられて、丹後侍従(忠房)が京の六波羅へ自首して出た。
そして鎌倉へ護送されると、頼朝は忠房に対面して、
「都へお帰りなさい。 京近くの田舎に、お住いすることを考えておきました」
そう騙して京へのぼらせ、後から人をやり、勢田の橋のほとりで、忠房を斬らせてしまった。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています)



279-280ページ 『平家物語 (下)』
著者: 中山義秀 現代語訳
2004年12月20日 初版発行
発行所: 河出書房新社




源頼朝は平重盛の子供を助けようと言ってるのですよ。 なぜなら池禅尼(いけのぜんに)の使いとして、平清盛の嫡男である重盛が口をきいてくれたので殺されずに伊豆に流罪になったというのです。 だから、重盛の子供を助けたいと。。。でも、それは頼朝の本心ではなかった。 ただ、そのような噂を流しただけ。。。



その噂を聞きつけて重盛の子供である平忠房(ただふさ)が自首して出て来たのでござ〜ますか?

その通りですよ。 ところが面と向かって頼朝は命を助けると言っておきながら勢田の橋のほとりで忠房を斬らせた。 つまり、恩を仇(あだ)で返したことになるのですよ。 このようなところに僕は頼朝に冷血漢を見るのです。

でも、戦国時代にはそのような事はよくあったことなのでしょう?

あのねぇ〜、この当時はまだ後の戦国時代ほど世は乱れてなかった。 現に、平清盛は頼朝を殺そうとしたけれど、継母の池禅尼が命だけは助けてあげてくださいと頼んだので、頼朝を助けてあげたのですよ。 それなのに頼朝は、重盛の子供たちを一人でも二人でも助けると言っておきながら、騙して忠房を斬らせた。 それも、いかにも親切そうに「都へお帰りなさい。 京近くの田舎に、お住いすることを考えておきました」なんて、おためごかしな事を言っている。

それはちょっとやりすぎですわよね。

卑弥子さんだって、これはちょっと酷(ひど)いと思うんでしょう!? 殺される忠房の身になって考えてみてくださいよ。 命が助かると思って忠房は京都の六波羅へ自首して出た。 それから鎌倉へ送られて頼朝と対面した。 甘い言葉をかけられてから、また京都へと。。。 ところが勢田の橋までやって来ると、「この場で死んでもらいます」と言われる。 「どうして。。。、なぜ。。。? 頼朝殿は命を助けると言ったのですよ! ああそれなのに、それなのに。。。」 騙されたと知った、その時の忠房の気持ちを考えると、僕は頼朝という人間が血も涙もない冷酷な殺人鬼に思えてくるのですよ。

でも、そのような事は武士の世界には付き物だったと思いますわ。

あれっ。。。 卑弥子さんは凶悪な冷血動物の源頼朝を庇(かば)うのですか?

別に頼朝を庇おうとしているのではござ〜ませんわ。 ただ、ウィキペディアを見たら『平家物語』とは違うことが書いてありましたわ。


池禅尼


(zenni02.jpg)

長治元年(1104年)頃に生まれる。
長寛2年(1164年)頃に亡くなる。
平忠盛の正室。
平清盛の継母に当たる。

平治元年(1159年)の平治の乱においては複雑な政争を勝ち抜いた清盛が勝利し、その結果、源義朝ら他の軍事貴族が駆逐された。
翌永暦元年(1160年)2月、義朝の嫡男で13歳の頼朝が池禅尼ならびに頼盛の郎党である平宗清に捕えられた。
この際、池禅尼は清盛に対して助命を嘆願したと言われている。
また頼朝の助命の為に池禅尼が断食をし始めたため、清盛も遂に折れて伊豆国への流罪へと減刑したとも言われている。

上記内容を記している『平治物語』では頼朝が、早世した我が子家盛に生き写しだったことから池禅尼が助命に奔走したとするが、実際には頼朝が仕えていた上西門院(待賢門院の娘、後白河の同母姉)や同じ待賢門院近臣家の熱田宮司家(頼朝の母方の親族)の働きかけによるものと推測される。

その後、池禅尼は死去したと言われているが、正確な没年は不明である。

頼朝は池禅尼の恩を忘れず、伊豆国で挙兵した後もその息子である頼盛を優遇し、平家滅亡後も頼盛の一族(池氏)は朝廷堂上人および幕府御家人として存続する。



出典: 「池禅尼」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




このように頼朝は池禅尼の恩を忘れず、伊豆国で挙兵した後もその息子である頼盛を優遇し、平家滅亡後も頼盛の一族(池氏)は朝廷堂上人および幕府御家人として存続すると書いてありますわ。 平忠房を殺したけれど、池禅尼の息子である頼盛を助けているのですわよ。 そればかりか幕府御家人として優遇しているのですわよ。 だから、池禅尼に対して恩返しをしているのですわ。



もしかして卑弥子さんの家系には源頼朝の血が入っているのですか?

いいえ。。。 あたくしの家系は主に藤原氏の血が濃いのでざ〜ますわ。 あたくしの知る限り頼朝とご先祖様とは何の関係もありませんわ。

だったら、頼朝を弁護する必要はないじゃありませんか! どうして頼朝の肩を持つのですか?

別に頼朝さんの肩を持っているわけではござ〜ませんわ。 たまたまウィキペディアを見たら『平家物語』とは違うことが書いてあったのですわ。

あのねぇ〜、そもそも『平家物語』とは、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しで始まって平家の滅亡を描いた物語ですよ。

存じ上げておりますわ。

つまり、平家が滅んだのは、武士にもかかわらず貴族の真似をして、おごり高ぶったからだと言うバックグラウンド・ミュージックのようなものが全編を通して流れている。 要するに、平家を悪く言う物語なのですよ。

だから、どうだと言うのでござ〜ますか?

だから、平家の者どもが悪く言われるのは当たり前なのですよ。 それで『平家物語』では平清盛が必要以上に悪者にされている。 そんな中で僕が引用した場面では頼朝が清盛以上に悪い人間として。。。人を騙す冷血漢として描かれている。 つまり、『平家物語』の作者を含めて、この当時の人は義経に対しては好感を持っていても、頼朝に対しては好感を持ってないのですよ。 『平家物語』では、むしろ作者は源頼朝を冷血動物を見ているような書き方をしている。

でも、ウィキペディアを見たら『平家物語』とは違うことが。。。

あのねぇ〜、ウィキペディアを書いている人は現在に生きている人ですよ。 『平家物語』を書いた人は、実際に平清盛や頼朝が生きていた時代を知っている人です。 だから、『平家物語』の作者の意見の方を尊重すべきだと僕は思うのですよ。

そうでしょうか?

それに、頼朝は人間として見ても、とりわけ素晴らしいと思わせるようなところがない。

まるで、見てきたような事をデンマンさんは言いますわね?

あのねぇ〜、僕は生まれ故郷の行田市に帰省していた去年の11月にNHK大河ドラマの『平清盛』を楽しみにしながら観ていたのですよ。


(kiyomo01.jpg)



その中で描かれた北条政子と源頼朝のやり取りを見ていると、頼朝は政子よりも1段も2段もランクが下のような人物にしか見えない。 その後、尼将軍として権勢を振るった政子の方が頼朝よりも“将軍”らしい。



でも、それはデンマンさんの個人的な受け取り方ですわよう。

あれっ。。。 卑弥子さんは大河ドラマの中でも頼朝に肩を持つのですか?

だってぇ、頼朝に扮している岡田将生君はカッコいいんですものォ〜。。。 うふふふふふふ。。。


(masako02.jpg)



やだなあああァ〜。。。 カッコいいとか、ハンサムだとか。。。 そういうことは大河ドラマとは関係ないのですよ。 どうでもいいことですよ。 もっと歴史的人物の本質を見てくださいよう。 んもお〜〜!



つまり、デンマンさんは何が何でも頼朝が嫌いなのですわね?

いや、僕は客観的に好き嫌いを考えないようにして見ているつもりです。 『平家物語』を読んでも、大河ドラマを観ても、頼朝という人物はごく平凡な人間だったのではないかと思えるのですよ。 そのような思いに駆られました。 つまり、周りの人から持ち上げられて小山の大将になっただけだと。。。 実際に動いたのは義経を含めて有能な部下たちですよ。 しかも、頼朝は完全に政子の尻に敷かれてますよ。

あらっ。。。 カカァ〜天下の家庭だったのでござ〜ますか?


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大河ドラマを観ていたらマジでそう思いましたよ。 つまり、頼朝という人間はごく平凡な人間だったのですよ。 だから、徳川家康などと比べると頼朝の名言というものは、ほとんど残ってない。 僕は頼朝の名言を何一つとして思い出せませんよ。 つまり、頼朝という人間は平凡でつまらない、ごく平均的な人間だったからめ名言を残さなかった。



つまり、頼朝さんは有能な部下に支えれれて鎌倉幕府を立ち上げたけれど、本人にはこれと言った才能がなかったとデンマンさんは言うのですか?

だってぇ、そうでしょう。。。!? もし頼朝がマジで才能ある人間だったら、織田信長や豊臣秀吉や徳川家康のように名言を残してますよう。 卑弥子さんは頼朝の残した名言を一つでも知ってますかァ〜?

知りませんわ。 そう言われてみれば不思議と頼朝さんの名言というのは歴史の教科書にも出てきませんわね。

そうでしょう!? だから、源頼朝という人物は言ってみれば東国の武士たちに「源氏の棟梁」だと持ち上げられただけの、ごく平凡な人間だったのですよ。

そうかしら。。。?

そうなのですよ。 それに、『吾妻鏡(あずまかがみ)』には次のような箇所がある。


辰刻(たつのこく)、国宗、院宣を捧げて樋口の河原に武州(北条泰時)に相逢(あ)ひ、子細を述ぶ。
武州院宣を拝すべしと称し、馬より下りぬ。
共の勇士五千余輩あり、この中に院宣を読めるものありやと、岡村次郎兵衛尉をもって尋ねたところ、勅使・河原小三郎云う。
武蔵野国の住人藤田の三郎は文の博士のものなりと。
藤田を召し出だして院宣を読ましむ。

(デンマン注: 読み易く読み下しました。
赤字はデンマンが強調)



承久3(1221)年6月15日の条
『吾妻鏡』



 (すぐ下のページへ続く)


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