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萌える恋歌の裏に(PART 1 OF 4)

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萌える恋歌の裏に(PART 1 OF 4)




萌える恋歌

平城京に住む人びとは、何を自分たちの住む都の代表的な「景」として想起していたのか。 それを知る手がかりが、『万葉集』の卷15にある。 熱烈な恋歌で知られる中臣宅守(なかとみのやかもり)と、狭野弟上娘子(さののおとがみのをとめ)の贈答歌である。 罪を得て、越前(現在の福井県)に流される途中に宅守が娘子に送った歌に、次のような歌がある。 配流の時期については明確ではないが、738(天平10)年前後のことだと考えられる。




あをによし

奈良の大路は

行き良けど

この山道は

行き悪(あ)しけりかり





(あをによし: 枕詞)

奈良の大路は

歩きやすいけれど

この山道は

行きづらい

(巻15の3728)


 (中略)



望郷の念にかられた宅守の脳裏にあったのは、整然と南北に延びる平城京の直線道路だったのだろう。 地方の官道が整備されていった時代とはいえ、それは都以外には存在し得ない光景だったからである。 だからこそ、流罪となった宅守が望郷の思いのなかで、都大路を想起したのであろう。 (中略) さて、もう一人、遠く鄙(ひな)の地にあって、望郷の思いから都大路に思いを馳せた歌人がいた。 大伴家持(おおとものやかもち)である。 国司として越中に赴任していた家持は、750(天平勝宝2)年の春3月に、次のような歌を残している。


2日に柳黛(りゅうたい)を攀(よ)ぢて京師(みやこ)を思ふ歌一首



春の日に

萌(は)れる柳を

取り持ちて

見れば都の

大路し思ほゆ



春の日に

芽吹いた柳を

手に取り持って

見ると都の

大路のことが思い出される


(巻19の4142)


「柳黛」とは、柳の葉を眉に見立てた言い方で、柳の葉を引っ張って奈良の都に思いをはせた歌、というこよになる。 (中略)都大路には柳が街路樹として植えられていたからである。 ために、遠く越中で見た柳が、都大路を連想させたのであろう。 もちろん、家持は、その大路を歩く美男美女にも、思いをはせていたことであろう。 それは、越中に赴任して迎える4度目の春のことであった。



1998(平成10)年に復元された朱雀門に立って、南面すれば当時の朱雀大路の景観を実感することができる。 平城京生活者にとって「ふるさと」とイメージされる場所だった飛鳥、都を思い出させる景観として想起された都大路。それは、紛れもなく「万葉びと」の生活空間の一部であった。

さて、先ほど見た中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌に、次のような歌がある。




君が行く

道の長手(ながて)を

繰(く)り畳(たた)ね

焼き滅ぼさむ

天の火もがも



あなたの行く

長い長いその道のりを

手繰り寄せ、そして重ねて

焼き滅ぼしてくれるような

天の火が欲しい


(巻15の3724)


狭野弟上娘子は、あなたが行く長い道中を、手繰り寄せて畳んでしまい、焼き滅ぼしてしまう天の火が欲しい、と宅守に歌を送っている。 これは、二人を隔てる物理的、時間的距離をなくしたい、ということを歌っているのであろう。 つまり、歌を交わすことによって心的距離をなくしているともいえるだろう。 物理的、時間的距離を無化させる歌の力のようなものを、私はこの歌に感じている。

もちろん、この贈答歌が、あとから何らかの歴史的事実に基づいて作られた虚構の歌で、実際にやり取りされたものではない、という可能性もあるのだが、そうであるならば、なおさらのこと、この歌の表現が多くの人びとの共感を前提として作られている証拠になるであろう。

上野誠・奈良大学教授

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)



42 - 43ページ
『別冊太陽 日本のこころ156 平城京』
(平城遷都1300年記念)
2010年4月1日 初版第3刷発行
編集人: 湯原公浩
発行所: 株式会社 平凡社




デンマンさん。。。あんさんは「萌える恋歌」を持ち出してきよってぇ、またわたしが恋に狂っていると中傷しやはるのォ〜?



ん。。。? わてがめれちゃんを中傷する?

そうですう。 あんさんは、わたしが常に恋をしていないと、うつ病に取り付かれると信じ込んでおりますねん。

わてが。。。?

そうですう。 あんさんは、いつだってわたしの『即興の詩』サイトから萌え萌えの詩や短歌を持ち出してきよってぇ、わたしが恋に狂っていると日本語が分かる世界のネット市民の皆様に、さんざ広めてしまいましてん。

わてが。。。?

そないに惚(とぼ)けないでおくれましなア。

わては惚けておらんでぇ〜。 何も、めれちゃんを中傷するために、この記事を書き始めたのとちゃうねん。

そないに言うなら、どうして「萌える恋歌」など持ち出してきやはったん?

あのなァ!〜、わては、たまたまバンクーバー図書館から借りてきた『別冊太陽 日本のこころ156 平城京』を読んでいたのやがなァ。 なかなか興味深い本なのや。

それで、その本の中に「萌える恋歌」がありはったん?

そうなのや。

。。。で、わたしを中傷する気持ちがないんやったら、どないなわけで「萌える恋歌」を取り上げはったん?

「萌える恋歌」というタイトルがついておるのやけれど、わては次の箇所を読んで思い当たることがあったのや。

何らかの歴史的事実に基づいて

作られた虚構の歌で、

実際にやり取りされたものではない、

という可能性もある

そやけど次の恋の歌は、どないに読んでも恋の歌ですやん。




君が行く

道の長手(ながて)を

繰(く)り畳(たた)ね

焼き滅ぼさむ

天の火もがも



あなたの行く

長い長いその道のりを

手繰り寄せ、そして重ねて

焼き滅ぼしてくれるような

天の火が欲しい





めれちゃんにとって、上の歌は何が何でも恋の歌としか思えんのか?



そやかてぇ、恋の歌ですやん!?

そやけど、恋の歌にしては、あまりにも激しすぎるねん。 「焼き滅ぼしてくれるような天の火が欲しい」。。。焼き滅ぼしてくれるような、という形容は相思相愛の恋の歌にはそぐわないねん。 むしろ相手を呪うような気持ちがあるように、わてには思えるのやァ。

わたしは、そないに思わへん。 焼き滅ぼしてくれるような、という形容は狭野弟上娘子の相手を思う気持ちの激しさを訴えているねん。 むしろ情熱の激しさを相手に知って欲しいねん。

でもなァ〜、もし、わてがこの歌を相愛の相手からもらったとしたら、「焼き滅ぼ」すという語句を見て一瞬ギクリとするでぇ〜。。。もし、恋の情熱を訴えるのやったら、次のような歌になるねん。


(すぐ下のページへ続く)

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