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三丁目の夕日は沈んだ(PART 1)

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三丁目の夕日は沈んだ(PART 1)






ケイトー。。。 今日は映画の話なのォ〜?



あれっ。。。 シルヴィーは『ALWAYS 三丁目の夕日』という映画のことを知ってるんだァ。

だってぇ、2005年に日本で大ヒットしたじゃない。

シルヴィーも観たのォ〜?

観たわよ。 大ヒットしただけあっていい映画だわ。


(3chome.jpg)

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ALWAYS 三丁目の夕日

西岸良平の漫画『三丁目の夕日』を原作とした2005年の日本映画である。
昭和33年(1958年)の東京の下町を舞台とし、夕日町三丁目に暮らす人々の暖かな交流を描くドラマに仕上がっている。
当時の港区愛宕町界隈を想定している。

建設中の東京タワーや上野駅、蒸気機関車C62、東京都電など当時の東京の街並みをミニチュアとCGで再現した点が特徴である。
昭和30年代の街並みが再現されたコンピュータシミュレーションでは、東京工科大学メディア学部の研究室が協力した。

映画に出てくる、三丁目の住宅、商店、街並みは全てセットで再現されており、東宝第2、9ステージ及び、館林市大西飛行場に建設されたオープンセットで撮影された。
三輪自動車ミゼット、家電、店内の商品などはほとんどが各地から集められた本物である。

興行では、公開1週目と2週目に興行首位を記録、2005年に200万人超を動員した。
全国200館を越す映画館で上映延長が決定し、年越しロングラン上映となった。

2005年12月22日、日本アカデミー賞(日本テレビ)において全部門(13部門)で受賞。
2006年3月3日、日本アカデミー賞の最優秀賞発表では、この13部門の内12部門で最優秀賞を獲得した。

あらすじ

昭和33年春、東京の下町、夕日町三丁目にある鈴木オート。
そこに集団就職列車に乗って青森から集団就職で六子(むつこ)がやってくる。
六(ろく)ちゃんと親しまれるが、実は大企業に就職できるかと期待していた六子は、小さくて古臭い下町工場の鈴木オートに内心がっかりしていた。

その向かいにある駄菓子屋「茶川商店」の主人・茶川竜之介は小説家。
茶川は居酒屋「やまふじ」の美人店主・石崎ヒロミから見ず知らずの子供・古行淳之介を酔った勢いで預かってしまう。
帰すに帰せず、二人の共同生活が始まる。


(3chome2.jpg)



出典: 「ALWAYS 三丁目の夕日」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




ケイトーは、どうしてまた、この映画を取り上げる気になったのよ?



あのねぇ〜、夕べ、バンクーバー市立図書館から借りてきた本を読んでいたら次の箇所に目が留まったのですよ。


繁栄と引きかえに失ったものとは…?

2005年、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」が大ヒットしました。
この映画の時代設定は、1958年です。
安保反対で大騒動が起こる直前の、岸信介首相の時代です。


(anpo02.jpg)

映画のメッセージは明快です。
「今日、われわれは繁栄のなかにある。
しかし、繁栄と引きかえに、われわれはなにか貴重なものを失ったのではないか」

「三丁目の夕日」では、人々は貧しいながらも自分のできることに真剣にとりくみ、互いに助け合って暮らしています。
この時代、つまり1950年代の日本は、国家も社会も、よりよい明日をめざして目の前の課題に向きあっていました。 (略)

そしていま、日本の国家や社会をみると、個人の生き方で「三丁目の夕日」の世界を失ったのと同じように、国家社会のあり方においても昭和30年代前半の貴重な精神を失いつつある。
そのことを問いかけたからこそ、多くの人が「三丁目の夕日」に感動したのだと思います。


(3chome3.jpg)

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
イラストはデンマン・ライブラリーより)



347-348ページ 『戦後史の正体 1945-2012』
著者: 孫崎 享
2012年8月20日 第2刷発行
発行所: 株式会社 太洋社




なるほどォ〜。。。 日本は経済大国になったけれど、バブルがはじけて。。。、そういう中で何か大切なものを忘れてしまったのではないかと言うのねぇ〜?



そういうことなのですよ。

確かに日本は太平洋戦争でコテン、コテンにやられて、広島と長崎に原爆を落とされ、しかも東京は大空襲を受けて焼け野原になってしまったのよねぇ〜。。。


(bombing.jpg)

1945年3月の東京大空襲で

焼け野原になった江東区



こうして大空襲の後には何もなくなってしまってぇ〜、だだっ広い焼け跡が見渡す限り続いていたのよね。 ケイトーはこのような廃墟の中で生まれたのォ〜?



いや、僕のオヤジはあの激戦の沖縄で戦っていたのですよう。

あらっ。。。 マジで。。。? よく生き残ったわねぇ〜。。。

あのねぇ〜、沖縄本島に居たら、たぶん僕のオヤジは戦死していたか餓死していたと思うのですよ。

いったい沖縄のどこに隠れていたのォ〜?

いや。。。 別に隠れていたわけじゃないのですよ。 宮古島に駐屯していたのですよ。

宮古島には米軍が上陸しなかったのォ〜?

宮古島を通り越して沖縄本島に集中攻撃をかけたのですよ。 だから、オヤジは助かった。 でもねぇ〜、食料が尽きて、ずいぶんとひもじい思いをしたらしく、カタツムリを食べて飢えをしのいだと言ってましたよ。 だから、あとで僕らが3丁目の夕日を見ながら食卓を囲んで「おかずが少ないじゃないか!」不満を言うと「何を言ってるんだ! ご飯があるだけでもご馳走だと思え! 戦争の時には食べ物がなくなってカタツムリを食べて生きていたのだぞ!」。。。と、よくそういう話を聞かされましたよ。

つまり、あの「三丁目の夕日」の時代は、まだ日本も貧しかったのね?

その通りですよ。

。。。で、「繁栄と引きかえに失ったものとは…?」何だったとケイトーは思うのォ〜?

あのねぇ〜、上の本の中には次のような事も書いてあったのですよ。


つましい大臣


(ikeda-miya.jpg)

1950年4月、池田勇人蔵相は宮沢喜一秘書官をつれて、占領下の日本の閣僚として、はじめてアメリカに旅立ちました。
閣僚として、また国家の財政を握る大蔵大臣としての最初の訪米ですから、立派なホテルに泊まったと思うかもしれません。
でも実際は、非常につつましいのです。
宿泊費1日7ドルで、しかもツインベットの相部屋です。
ベットだけで部屋がいっぱいだったので、ふたりはベットの上で持参の酒を飲んでいたということです。

渡米の目的は「アメリカの財政経済事情の視察」です。
しかし実はこの二人は吉田首相から、「講和について米国側の意向をさぐる」という密命をおびていました。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
イラストはデンマン・ライブラリーより)



154ページ 『戦後史の正体 1945-2012』
著者: 孫崎 享
2012年8月20日 第2刷発行
発行所: 株式会社 太洋社




日本の大蔵大臣が1日7ドルの、しかもツインベットの相部屋で、後に総理大臣になる秘書官の宮沢喜一氏と、ベットの上でアグラをかいてですよ。。。 日本から持参した酒をチョビチョビ飲んでいたと言うのですよ。 なんだか、みじめったらしいではないですか! ところが、この池田大蔵大臣こそ、後に総理大臣になって「所得倍増計画」を実行に移して日本を経済大国にのしあげたリーダーだったのですよ。



そうよねぇ〜、その人がワシントンDCの1泊7ドルの安ホテルで秘書官相手に、お酒を飲みながら将来の日本について語り合ったのでしょうね。

そうなのですよ。 池田氏も宮沢氏も後に総理大臣になる人ですよ。 二人とも立派な人だと僕は改めて感心しましたよ。

ケイトーは、それが言いたくて、この記事を書いたのォ〜?

いや。。。違いますよ。 もちろん、二人は立派な日本の政治家だと思うけれど。。。、それに比べると今の政治家と官僚が、だらしなさ過ぎるのですよ。。。 つうかァ〜。。。 もう呆れ返って池田氏と宮沢氏の爪の垢でも煎(せん)じて飲ませてあげたいと思ってねぇ〜。。。

ケイトーはどうしてそれほど呆れ返るのよう?

あのねぇ〜、上の本を読んだ後で、僕は佐藤勝さんの本を読んだのですよ。 そしたら次のようなことが書いてあった。


外務官僚の非常識

2007年2月6日

外務官僚の非常識がまたひとつ露見した。
今回のヒールはモスクワの斉藤泰雄日本国全権大使だ。

総工費100億円をかけ、地上5階建て、敷地面積1万5000平方メートルの在ロシア日本国大使館の新建物が完成した。
しかし、一部の外務省幹部はこれでも不満があるようだ。


(rusembassy.jpg)

「機密費問題など一連の外務省不祥事で国民の批判を受け、『厚生施設』として設置を予定していた地下プール(全長17メートル)やサウナ、ボウリング場、テニスコートなどといった豪華設備の建設は中止された」(1月30日・産経新聞)からだ。 (略)
しかし、これで驚くのはまだ早い。
外務省は現在の日本大使館の建物もそのまま借り続けるつもりだ。
その理由は斉藤泰雄大使が大使館建物に隣接する大使公邸に住み続けたいと言っているからだ。

筆者もモスクワの日本大使館に7年8ヵ月勤務したので、この大使公邸については熟知している。
帝政ロシア時代に砂糖商人のお妾さん用に造られた豪邸で、天井が高く、立派な暖炉がある。 (略)
日本から連れてきた料理人、タキシードを来た執事、女中などに囲まれ、現代の王侯貴族のような生活だ。

王侯貴族のように連日、パーティーや宴会を開き、ロシア要人の人脈拡大に大使が努力するならば、公邸に消費されるカネも生きてくる。
事実、90年代に勤務した渡辺幸治大使、都甲岳洋大使は、連日のように宴会を開き、日本大使館がロシア政治エリートにとって情報交換と社交の場になっていた。

特に都甲氏は自腹を切って築地から高級食材を手に入れ、ロシア人に鮨や会席料理を振る舞い、これが好評だった。
日本大使に招待されることがロシア人にとってのステータスシンボルになった。
当然、よい情報が集まってくるし、北方領土返還に向けた仕掛けもできる。

斉藤泰雄大使のところにロシア人はほとんどやってこない。
ロシア語ができず、教養のレベルが低く、ユーモアのセンスに欠けるので人気がないのだ。
こういう輩に限って特権にしがみつく。
現大使館と公邸の賃料は月956万円である。

国家予算の無駄は省くべきだ。
新建物ができたのだから、現建物の賃借契約は解除すべきだ。
大使公邸については、広大な新大使館の一部を改装すればよい。
その間は、公邸として使うことができる建物を借りればよい。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
イラストはデンマン・ライブラリーより)



107-109ページ 『この国を動かすものへ』
著者: 佐藤優
2010年4月15日 第2刷発行
発行所: 株式会社 徳間書店




これを読んでねぇ〜。。。 僕は納得しましたよ。 政治家をはじめ官僚までがこういう精神構造を持つようになってしまったのですよ。



でも、日本の政治家と官僚のすべてが斉藤泰雄大使のような人間ではないでしょうに!?

もちろん、中には優れた人もいるでしょう! でもねぇ〜、圧倒的に斉藤泰雄大使のような自分のことだけしか考えないような政治家と官僚が増えたのですよ。 池田氏や宮沢氏のような政治家が減ってしまったのですよ。

じゃあ、どうすればいいのォ〜? 日本がまた貧しい時代に逆戻りすればいいとケイトーは思うのォ〜?

いや。。。 そうは思わないけれど、「繁栄と引きかえに失ったものとは…?」と言う答えが見つかりましたよ。

その答えとは。。。?

自分の事だけしか考えない政治家と官僚が日本を動かしているのですよ。



 (すぐ下のページへ続く)


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