性愛の未来(PART 3 OF 4)
男に向かうと、女は小さい頃にいたずらされた事を切々と語りだすのやがなァ。 そのうち女は殺意を抱いて上の写真にあるように男に襲いかかるねん。
そうやってぇ、何人もの男を殺しやはったん?
そうなのやァ。。。なまめかしい話しなんやけど、なんとのう怖い話でもあるねん。
それで、その事が「性愛の未来」と関係あるのォ〜?
めれちゃん。。。、そないに、せかせるとアカンでぇ〜。。。
あんさん!。。。いいかげんにせんかいなア!。。。まだ他に話さねばならんことがあるん?
そうやァ。。。次の映画も観て欲しいねん。
『海は見ていた』
あらすじ
江戸・深川の岡場所にある日、一人の若い侍(吉岡秀隆)が逃げ込んでくる。
刃傷沙汰を起し追っ手に追われているという。自らの居室にかくまった娼婦のお新(遠野凪子)は、その後も何かとお新の元に通う侍に恋をするが、若侍はただ居心地がいいから通っていただけで恋心など毛頭ない事を知り打ちひしがれる。
やがて、貧困ゆえに過酷な人生を歩んできた町人・良介(永瀬正敏)と再び恋に落ちるが、ある嵐の夜、置屋で度々問題を起していた客が娼婦の姉さん分である菊乃(清水美砂)をめぐって暴れだす。
そこに居合わせた良介は人の良さから止めようとして問題を起した男と激しく揉み合い殺してしまう。
誰の目にも非は問題の男にあることは明白であったが、役人の処罰は必至であり、既に将来を約束するお新と良介は一転、悲劇へと突き落とされてしまう。
しかし、折からの豪雨が激しさを増し、海から溢れた水がついには岡場所全体を飲み込んでしまう。
お新・菊乃・良介はそれぞれ避難するが、見渡す限り水没した町の景色は、まるで、過酷な人生を歩んできた二人を海が見守っていたかのごとく、事件の証拠を全て隠してしまうのであった。
エピソード
•元々黒澤明監督により撮影される予定であったが、ラストの洪水のシーンで莫大なコストがかかることが原因で、製作に至らなかった作品である。
後年、遺志を継いだ熊井監督の手で、黒澤の本来の意図よりは縮小した形だが、東宝の砧撮影所の撮影用大型プールを使い撮影が実現した。
黒澤はお新=宮沢りえ、菊乃=原田美枝子のキャスティングで撮影するつもりであり、二人には脚本も渡されていた。
なお房之助=吉岡秀隆は黒澤の意向通りの配役である。
•脚本の前半と後半のエピソードのつながりに問題があると指摘(黒澤久雄)されたため、黒澤は脚本をさらに改稿するつもりだったが、製作実現の目途が立たなかったためにそのままになっていた。
そのためもあり、クレジットには明記されてないが熊井啓が脚本に自ら手を入れている。
•黒澤が全編ラブストーリーで構成される作品を執筆したのは大変珍しく、映画の予告編では「最後に黒澤が撮りたかったのはラブストーリーであった」とセンセーショナルに紹介した。
•建物のセットや衣装、小物、髪結方法まで徹底的にリアリティを追求し、また江戸の粋といった時代風俗も丹念に描いた作品であり、ストーリーだけでなく映像の美しさや歴史考察の上でも完成度が高い作品といえる。
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『愛しの山河』に掲載
(2011年5月8日)
どないな訳で黒澤監督はこの映画を作らへんかったん?
実は、作るつもりやったのやがなァ。 83歳になった黒澤明が自分で監督して映画を作るつもりでシナリオを書いたのや。 でもなァ、作り始める前に亡くのうてしもうたのや。 それで遺族の人たちが熊井啓監督を指名して製作した作品なのや。
つまり、黒澤監督の最後の作品になる映画やったのやねぇ?
そうやァ。。。映画『夢』で自伝的な映画を作ったのやけど、最後にもっと素晴らしい愛の人間賛歌を残そうとしたらしいのやァ。
それで、また山本周五郎さんの小説を基にしてシナリオを書きはったん?
そうなのやァ。 この映画は、山本周五郎の『つゆのひぬま』と『なんの花か薫る』の二つの作品に基づいてるねん。
そやけど、黒澤監督はどうして山本周五郎さんの作品にこだわるねん?
いい作品が多いからやないかいなァ。 わても山本周五郎作品にハマッていた時期があって、UBC(ブリティッシュ・コロンビア大学)のアジア図書館で全集をすべて読んだのやでぇ〜。
マジで。。。?
こないな時に嘘や冗談が言えるかいなア!
そやけど、黒澤監督が好んで作っていた『七人の侍』とか『蜘蛛巣城』というような男っぽいアクション映画と違いますやん。
『蜘蛛巣城』のシーン
あのなァ〜、『海は見ていた』を作ろうと企画した時に黒澤監督は言うてたらしい。
何てぇ。。。?
俺はずっと「女を描くのが下手だ、下手だ」と言われ続けていたから、死ぬ前に一度、女の映画を撮ってやろう。 黒澤監督は、そう言っていたということやァ。
。。。で、この映画にも「性愛に囚(とら)われている女」が出てきやはるのォ?
出てくるねん。 ヒロインの「お新」の姉御(あねご)役である菊乃さんやがなァ。
どう言う訳で性愛に囚(とら)われているん?
嫌な男がヒモになってるねん。 その男から離れたいのに離れられない。 つまり、菊乃さんの体の寂しさがその男でないと満たされない。 そう言う訳で菊乃さんは「性愛に囚(とら)われている女」になってしもうたのや。 映画の中では、そないな設定になっておるねん。 でもなァ、その設定がちょっとイマイチなのやァ。 そやから、『海は見ていた』を黒澤監督に作ってもらいたかったと、わては残念でたまらん。
どうして、あんさんは、そないに思いはるのォ?
もちろん、熊井監督の映画も悪くないんやけど、黒澤監督が作ったシナリオにかなり手を入れたらしい。 黒澤監督が『赤ひげ』を作ったときに、原作者の山本周五郎さんが観て「原作よりいい」と言ったというのやァ。 そやから、黒澤監督が『海は見ていた』を作っていたら、もっと素晴らしいものができていたに違いない。
あんさんは熊井監督の作品が不満やのォ〜?
わては原作の『つゆのひぬま』と『なんの花か薫る』を読んでるねん。 本と比較すると、あの映画が原作以上だとはどうしても思えんのやァ。
そやかて、黒澤監督は亡くなってしもうたのやから、仕方があらへん。。。で、「性愛の未来」はどうなってるん?
そうや。。。そのことやがなァ。。。次の文章を読んで欲しいのや。
近年日本で、離婚、未婚の母が増えたなどというが、これまではメスが結婚という形でオスと結びつかないと生きていけなかっただけで、人口の減少でメスが働く場所を確保できれば、特定のオスに縛られるのを嫌うのは当たり前である。 ヒト属は本来メスが新しい集団へ移動していくという形で、繁殖のシステムを作り上げていたのだから、メスの方が独立心が強いのは当たり前である。
(中略) 地球の大変革は近づいている。 人類は、地球の歴史に習い、すでに準備を終えた植物を手本にしてその変革に備えるべきであろう。 ただしここから先はすべて、空想の産物であることを断っておく。
まずは、バーナード・ショウと女優との会話のように、ある点で優秀なもの同士が交配しても、その子孫が両者の優秀さをともに持つ保証はないことについて。 人類がもし生物的にはもう進化の余地がないのならば、セックスはコミュニケーションの手段としてだけ、あるいは娯楽としてだけ残し、増殖は自分自身の細胞を培養して、残すべきなのかもしれない。 動物に対するバイオテクノロジー技術はまだ細胞を増やす段階止まりだが、近い未来、ヒトの形を作れるところまで到達するかもしれない。 歴史はくり返すというが、生物は最初は性を持っていなかった。 分裂によって己を二つに分けて、命をつないでいた。 それに戻るのも、一興かもしれない。 実を結ばない花を咲かせながら、根で繁殖している植物が自然界に存在するのだから、それも将来へのひとつの選択である。
(中略)
バイオテクノロジーの技術を使えば、ヒトとすべての生物のDNAは、融合可能なのだから、ヒトが天使になる可能性もある。 ヒトに鳥の遺伝子を組み込んでそれにトライしてみる。 鳥では手がなくなってしまうから、トンボやチョウの遺伝子を組み込む方がよいかもしれない。 エネルギー資源枯渇にそなえ、デンキウナギのような発電能力を持つとか、葉緑体を組み込んで食料の真の自給自足を目指すとか、さまざまな可能性の模索が考えられよう。
(注: 赤字はデンマンが強調
イラストはデンマン・ライブラリーから)
270 - 273ページ
『チョウのフェロモン、キリンの快楽』
著者: 赤池学・田仲義弘
1998年12月16日 第1刷発行
発行所: 株式会社 講談社
分かるやろう、めれちゃん。。。将来的にはセックスはコミュニケーションの手段として残しておくと言うてるねん。
そやけど、それは「人類がもし生物的に、もう進化の余地がないのならば」という前提の上でのことやんかァ! まだ進化の余地はあると、わたしは思うねん。
確かに、そうやァ。。。しかしなァ、進化の余地があっても、セックスが生殖の目的だけに行われるわけではないと思うねん。 やっぱり、将来的には、クローン技術によって人間が増えるようになってからも、めれちゃんが言うたように、セックスは、愛する人との大切なコミュニケーションになるだろうと、わては思うたわけなのやァ。
そやけど、黒澤監督にとっての「性愛の未来」ってぇ、どのようなものやったのやろか?
実は、黒澤監督は『海は見ていた』の中で、「性愛の未来」を描き出そうとしたのやァ。 わては、そう信じてるねん。
どないな訳で、あんさんは、そのように言わはるのォ〜?
黒澤監督は『夢』で「死の未来」を描いたのや。
『夢』(英題:Dreams)
『夢』は、1990年に公開された黒澤明による映画作品である。
日本とアメリカの合作。
「日照り雨」「桃畑」「雪あらし」「トンネル」「鴉」「赤冨士」「鬼哭」「水車のある村」の8話からなるオムニバス形式。
黒澤明自身が見た夢を元にしている。
各エピソードの前に、「こんな夢を見た」という文字が表示されるが、これは夏目漱石の『夢十夜』における各挿話の書き出しと同じである。
黒澤映画の中では「デルス・ウザーラ」同様、国内でのフィルム上映の機会に恵まれない作品である。
あらすじ
日照り雨
突然の日照り雨。少年の私は母から「外へ出ていってはいけない。
こんな日には狐の嫁入りがある。見たりすると怖いことになる」と言われるが…。
桃畑
姉の雛祭りに遊びに来た友人にお団子を運ぶ。
友人は5人来たのに部屋には4人しかいない。
姉は間違いだというが戸口に1人の少女が立っている。
逃げる少女を追って桃畑に辿りつく…。
雪あらし
雪山で遭難した。3人の山仲間と共に3日間歩き続けたあげく幻覚に襲われる。
朦朧とした意識の中で雪女が現れた…。
トンネル
一人の陸軍将校が戦地から戻り、人気のない山道を歩いているとトンネルに差し掛かる。
そのトンネルから犬が出てきて威嚇してきた。犬に怯えながらも無事にトンネルを出られたが…。
鴉(カラス)
ゴッホはどこにいるのか。ゴッホの絵画を見ているとその絵の中でゴッホを探していた。彼は「カラスのいる麦畑」にいた…。
この章では、ショパン「雨だれの前奏曲」が使用されている。
赤冨士
大勢の人々が逃げ惑っている。何があったのかわからない。
目の前では赤く染まった富士山が大噴火を起こしている。原子力発電所が爆発したという。
目の前に迫る色のついた霧は着色された放射性物質であった…。
鬼哭
霧が立ち込める荒野を歩いていると後ろから誰かがついてくる。
1本角の鬼である。彼は昔人間だったが核汚染でこの世界は荒野と化し、彼は苦しみに苛まれるという…。
水車のある村
撮影に使われた大王わさび園水車小屋旅先で、静かな川が流れる水車の村に着く。
壊れた水車を直している老人に出会い、この村人たちが近代技術を拒み自然を大切にしていると説かれ、興味を惹かれる。
老人の初恋の人であった老婆の葬式が行われた。
村人は嘆き悲しむ代わりに、良い人生を最後まで送ったことを喜び祝い行進するのであった。
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
赤字はデンマンが強調
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