エロい道鏡と薬師如来(PART 1)
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デンマンさん。。。 今日はエロいお話でござ〜♪〜ますか?
。。。ん? 卑弥子さんはエロい話が好きなのですか?
やだわあああァ〜。。。 あたくしは、ただ上のタイトルを見て、デンマンさんがエロいお話をするだろうと思っただけでござ〜ますわ。 エロいお話が好きだと思われるのは心外でござ〜ますう。 デンマンさんが“エロい道鏡”を持ち出したので、あたくしは素直にエロいお話を期待したまでですわァ〜。 おほほほほほ。。。
つまり、卑弥子さんはエロい話を期待したわけですねぇ〜?
デンマンさん! エロいお話にこだわらないでくださいなァ! 余計な事はどうでもよろしいですから、すぐに本題の“エロい道鏡”に入ってくださいまし。
あのねぇ〜、実は、“エロい道鏡”は話の後から出てくるのですよ。 まず、薬師如来の話をしなければならないのです。
薬師如来ですか?
あれっ。。。 目をギラギラと輝かせていた卑弥子さんが急につまらなさそうな表情になりましたねぇ〜。。。 薬師如来の話は興味がないのですか?
“つまらないわ”と言ったところで、どうせデンマンさんは薬師如来の話をするのでしょう! 手っ取り早く手短に済ませてくださいなァ。
あのねぇ〜、たまたま僕はバンクーバー市立図書館から借りてきた本を夕べ読んでいたのですよ。 そしたら次の箇所に出くわした。
薬師如来像
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『神護寺略記』所引の『弘仁資材帳』に記す「薬師仏像脇菩薩像二軀」の中尊にあたり、宇佐八幡の神託により和気清麻呂が延暦12年(793)前後に造立した神護寺本尊と推定される。
(中略)
本体は両手を除き台座蓮肉・蓮弁葺軸・心棒まで含めて檜一材より彫り出し、素地のままか、薄く彩色を施したもの。
畏怖感を与える面相、胸・腹や大腿部を強く盛り上げた量感のある体軀、鋭く深く彫った複雑な衣文など、平安時代初期の木彫の中でもことに迫力がある。
異様なほどの森厳な相好は、当時の薬師信仰が呪詛厭魅、怨霊の調伏に関係することから道鏡の怨霊への対抗として理解する説がある。
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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
179ページ 『京都古社寺辞典』
編者: 吉川弘文館編集部
2010年5月10日 第1刷発行
発行所: 株式会社 吉川弘文館
デンマンさんは辞典を読むのでござ〜ますか?
辞典を小説のように読んではいけませんか?
いいえ。。。 個人の自由ですから何をお読みになってもかまいませんけれど、ずいぶんと物好きですわねぇ〜。。。 辞典などよりも小説の方が読み易いでしょうにィ〜。。。
あのねぇ〜、僕は歴史が好きだから『京都古社寺辞典』ならば、必ずや日本史の面白いエピソードでも書いてあるのじゃないかと。。。 そう思いながら読んだのですよ。
それで上の赤字の部分が面白いと感じたのでござ〜ますか?
そうです。
どのように面白いのですか?
あのねぇ〜、僕は“エロい道鏡”にはずいぶん前から関心があって、次のような記事を書いたこともあるのですよ。
道鏡は本当にエロい悪者だったのか?
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当時僧を目指すということは、言葉を換えれば人間にある全ての欲を絶つことでした。
色欲、物欲、権力欲など、相当な覚悟とそれに打ち勝つ強靭な精神力が必要だったのです。
生半可な人間にはとうてい真似の出来ないことでした。
道鏡は語学にも才能があったと見え、留学僧でもない道鏡が兄弟子・良弁に付き添って唐招提寺の鑑真を訪れた時、二人の会話が理解できたと言います。
道鏡はさらに難解なサンスクリット語にも精通していたのです。
辞書も教科書も、ましてやテープもない時代に異国語を習得することは大変なことだった。
したがって、相当の頭脳の持ち主であったことはまず間違いないようです。
しかし、当時、悪い僧侶も確かに居ました。
仏教が隆盛するに伴い、様々な問題も現れ始めていたのです。
まず、僧侶としての戒律を守る者が少なくなってきました。
生活の苦しい多くの庶民が、税を免れるために、勝手に出家し僧を名乗るようになってきたのです。
これに困った朝廷は、正式に僧侶としての資格を与える“受戒”を行える僧を、唐から招請することを決め、それに応え、鑑真和上が多くの困難を乗り越えて来日したわけです。
以来、僧侶として認められるためには、“受戒”の儀式を受けなければならない決まりとなりました。
この“受戒”の儀式を行える場所=「戒壇」(かいだん)を持つ寺院が、畿内の東大寺、九州諸国の筑紫観世音寺、そして東国の下野(しもつけ)薬師寺の3カ所と定められました。
これらは、総称して「三戒壇」と呼ばれました。
道鏡のレベルの僧侶になると、セックスにむちゃくちゃをするような僧はまずその地位を保つことが出来ません。
この当時の宗教界は、それ程腐ってはいません。とにかく鑑真和尚が居た頃の話です。
なぜ道鏡は藤原氏に憎まれたのか?
称徳天皇が亡くなると、道鏡は下野(現在の栃木県の県域とほぼ一致する)にある薬師寺に左遷されてしまいました。
称徳天皇がまだ健在だった時に、道鏡は臣下としては最高の太政大臣まで上りつめたのです。
多くの歴史書は道鏡が天皇になろうとした、と伝えています。
もちろん、称徳天皇と道鏡は夫婦同然に性生活をエンジョイしていた、ということになっています。
こうした一連のことを考えると、その概要が見えてきます。
なぜこの女帝と道鏡がこれほどまでに貶(おとし)められねばならないのか?
それは、その後権力の座に返り咲いた藤原氏(主流派)に憎まれたためです。
称徳天皇もれっきとした藤原氏の一員です。
一員どころか、一見して藤原氏の中核の座を占めていたように見えます。
あの有名な光明皇后と聖武天皇の娘です。
この光明皇后という人は自分が藤原氏の出身であることを終生忘れませんでした。
忘れないどころか、署名には『藤三女』と書いたほどです。
つまり藤原不比等の三女であることを肝に銘じていた人です。
称徳天皇というのはこの皇后の娘ですから、当然ながら藤原氏であることを認識していないわけではありません。
しかし、この人は藤原氏にあって反主流派の立場を貫いたようです。
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この称徳天皇という女帝は二度天皇になっています。
最初の時は孝謙天皇と呼ばれました。
しかし、この時の実権は母親である光明皇太后と彼女の甥である藤原仲麻呂(藤原氏主流派)によって握られていたのです。
のちに『藤原仲麻呂の乱』を起こして殺されるのですが、この仲麻呂は藤原氏特有の権力欲に駆られており、政治を自分の思いどうりに操ろうとしたのです。
そういうわけで、孝謙天皇と衝突したわけです。しかも、母親は、すっかり仲麻呂の言いなりになっているわけです。
つまり自分の娘が天皇であるにもかかわらず、ないがしろにしていたわけです。
これではおもしろいはずがありません。娘として母に反抗する気持ちが頭をもたげてきました。
要するに、光明皇后と藤原仲麻呂(主流派)に対する称徳天皇と道鏡(反主流派)という図式になります。
光明皇后が亡くなると仲麻呂と孝謙上皇は完全に敵対関係になりました。
これは、『藤原仲麻呂の乱』という形で決着を見るわけです。つまり、反主流派が政権を奪取したわけです。
しかし、主流派は黙って手をこまねいていたわけではありません。
藤原永手を中心にして、例の『六韜』の教えに基づいて暗躍を開始しました。
この『六韜』がどういうものか、まだ読んだことがない人は次のリンクをクリックしてじっくりと読んでみてください。
これは、何を隠そう藤原氏のバイブルです。
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■『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』
この藤原永手らの暗躍によって称徳天皇は病気という表向きの理由を掲げられて暗殺され、道鏡は下野(しもつけ)の薬師寺に左遷されたわけです。
道鏡が現在伝えられているほど悪い事をしていないということは、彼が左遷されたにすぎないということが何よりも良い証拠です。
伝えられているように天皇位を望み、厳しい戒律を破って女帝と夫婦関係を結んでいたとしたら、まさに『大逆罪』のうえに『姦通罪』という汚名を着せられて死刑になっていたでしょう。
『日本女性の愛と情念の原点』より
(2006年5月30日)
分かりましたわ。 つまり、道鏡さんは藤原氏の主流派に睨(にら)まれて必要以上に悪者にされてしまったとデンマンさんは考えたのですわね。
その通りですよ。
。。。で、薬師如来がどのような関係にあるのでござ〜ますか?
つまり、道鏡さんが下野(しもつけ)の薬師寺に左遷されたという事件には和気清麻呂が主要人物として絡(から)んでいるのです。 主流派の藤原永手にそそのかされて和気清麻呂は大芝居をしたのですよ。
大芝居ってぇ。。。?
要するに、「道鏡を皇位につかせるべきではない」という神託を宇佐八幡宮から持ち帰ったのです。 これを聞いて孝謙天皇は激怒して和気清麻呂は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて大隅国(現在の鹿児島県)に流罪となってしまった。
それで、どうなったのでござ〜ますか?
でもねぇ〜、藤原永手らは、いろいろと画策して称徳天皇を病気という表向きの理由をでっちあげて暗殺してしまった。 道鏡は下野(しもつけ)の薬師寺に左遷された。 このあとで、和気清麻呂は出世しているのですよ。 1851年(嘉永4年)3月15日には、孝明天皇が和気清麻呂の功績を讃えて神階正一位と「護王大明神」の神号を贈っている。 昔の10円札にも和気清麻呂の肖像画が印刷されたほどです。
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今でも、皇居のそばに和気清麻呂の銅像がたっていますよ。
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実際には藤原氏の主流派に唆(そそのか)されて道鏡さんを貶(おとし)める計画に参加したのに、“エロい道鏡”さんが“天皇になる”という野望をくじいたということで和気清麻呂さんは尊敬されるようになったわけですわね。
そうです。。。
。。。で、薬師如来は。。。?
だから、和気清麻呂の心の底には常に後ろめたさがあったのですよ。 あらぬ罪状をかぶせられて下野(しもつけ)の薬師寺に左遷された道鏡さんが亡くなると怨霊に祟(たた)られるのではないかと清麻呂さんは恐れた。
それで、当時の薬師信仰が呪詛厭魅、怨霊の調伏に関係することから道鏡の怨霊への対抗として和気清麻呂さんは薬師如来像を造って道鏡さんの怨霊を鎮(しず)めようとしたのでござ〜ますか?
その通りですよ。 和気清麻呂さんが造らせた薬師如来像をもう一度じっくりと見てください。
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