なぜ唐に留まったの?(PART 1 OF 3)
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高向漢人玄理
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608(推古16)年9月、小野妹子に従って、学問僧の旻(みん)や南渕漢人請安(みなみぶちのあやひとしょうあん)らと共に、学生(がくしょう)として隋に派遣され、640(舒明12)年10月、請安と共に、新羅を経て帰国した。
実に32年に及ぶ中国滞在であった。
645(大化元)年、乙巳の変が起こると、玄理は旻と共に国博士(くにのはかせ)に抜擢された。
国博士は中大兄(後の天智天皇)に直属する政治顧問である。
新知識を学び、隋の滅亡、唐の隆盛を目のあたりに体験した玄理の経歴に照らすなら、うってつけの任といえる。
以後、改新政府の内外の課題に対処すべく、玄理の活躍が始まる。
唐の高句麗侵攻に伴う朝鮮半島の情勢に対応し、646年、新羅にわたり、金春秋(きんしゅんじゅう: 後の武烈王)の来日を実現した。
また、649(大化5)年には、旻と共に新官制の案を起草したとみられている。
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654(白雉5)年、遣唐使の長官となり、唐の都長安に至った。
翌年、遣唐使一行は帰国したが、玄理は唐にとどまり、彼の地で客死した。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
78ページ 『読める年表・日本史』
2012年7月21日 改定11版第1刷発行
発行所: 株式会社 自由国民社
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デンマンさん。。。 どうして高向漢人玄理を取り上げたのでござ〜♪〜ますか?
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あのねぇ〜、僕はバンクーバー市立図書館から借りてきた『読める年表・日本史』という日本史の本を読んでいたのですよ。 1、231ページもある分厚い本で持ち歩くのにもちょっと重いのですよ。 量(はか)ったわけではないけれど2キロから3キロぐらいありますよ。
図書館のパソコンで記事を書くために、いちいちマンションから往復1時間かけて歩いてゆくのに、その本も持ってゆくのですか?
そうですよ。 持ち運ぶのも上の引用箇所を書くための一度限りですからね。 毎日持ち運ぶわけではないから、それほど苦にはならないのだけれど、寝ながら読むにはマジで不便な本ですよ。
デンマンさんは本を寝ながら読むのでござ〜ますか?
寝ながら読むのが僕には一番落ち着いて読めるのですよ。
。。。んで、遣唐使一行は帰国したが、玄理は唐にとどまり、彼の地で客死した事実がデンマンさんは気になったのでござ〜ますか?
そうですよ。。。僕はなぜかこの事実にずいぶんと考えさせられてしまったのですよ。
どうして。。。?
あのねぇ〜、僕も海外での生活が20年以上にもなる。 その理由の一つには日本での暮らしが快適ではなかった。
つまり、日本では貧乏していて食うにも困るような青年時代をデンマンさんは送っっていたのでござ〜ますか? それで海外に出れば暮らしが豊かになると。。。?
やだなあああァ〜。。。 僕が青年時代を過ごしたのは日本が経済大国になりつつある、まさに黄金時代とも言えるような輝かしい時期だったのですよ。
つまり、貧乏して乞食のような生活をしていたのではないと言いたいのでござ〜ますか?
もちろんですよ。 僕は経済的な問題を言っているのではなくて、政治的、思想的な社会環境のことを言っているのですよ。
要するに、当時の日本の政治的、思想的社会にあって、デンマンさんは御自分が異邦人であるような。。。 そのような疎外感を感じていて。。。 どうにも居心地が悪くて日本を飛び出したというわけでござ〜ますか?
まあ。。。 簡単に言えばそういう漠然とした気持ちがあったのですよ。
それと高向漢人玄理さんと、どういう関係があるのでござ〜ますか?
あのねぇ〜、玄理さんの立場になって考えてみてください。 当時の政治の中枢にあって、天智天皇を助ける政治顧問なのですよ。 今で言えば、主席首相補佐官のような地位にあるのですよ。 その人が、今で言えばアメリカ政治・文化調査団の団長さんになって500人ぐらいのメンバーを引率してアメリカを訪問し1ヶ月ぐらいの期間いろいろと各地を回って調査してから、いざ帰国する時になって、帰国を断念してアメリカに留まってしまう。 そしてアメリカで亡くなって帰らぬ人となる。 現在ならば、そういうことです。 とても考えられないことですよ。
それを 655(白雉6)年に、実際にやってしまった人が高向漢人玄理さんだと言うわけですか?
その通りですよ。
なぜでござ〜ますか?
ほらっ。。。 卑弥子さんだって不思議に思うでしょう?
そうですわ。。。 考えてみれば日本の主席首相補佐官がアメリカに亡命したようなものですわね?
その通りですよ。
。。。んで、デンマンさんは、いろいろ調べてみて結論が出たのでござ〜ますか?
大体、見当がついたのですよ。
もったいぶらないで、その結論とやらを話してくださいましなァ。
あのねぇ〜、玄理さんは天智天皇が放つ刺客に殺されるかもしれないと心配して唐に留まったと思うのですよ。
まさかァ〜。。。 主席首相補佐官がどうして首相の放つ刺客に殺されねばならないのですか?
かつて小泉純一郎首相が刺客を放ったことがあるでしょう!
それは選挙の時のことですわ。 実際に刺客を放って選挙の対抗相手を殺そうとしたわけではござ〜ませんわア!
でもねぇ〜、655(白雉6)年当時は、実際に刺客を放って対抗相手、もしくは邪魔者は殺したのですよ。 592年には蘇我馬子が東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を刺客に雇って崇峻天皇を実際に暗殺してますからね。
マジで。。。? でも、玄理さんは、どうして自分が天智天皇に殺されるかもしれないと思ったのでござ〜ますか?
あのねぇ〜、実は、似たような事件があったのですよ。 かつて僕が書いた『定慧の暗殺事件』を読んでみてください。
定慧の暗殺
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定慧は藤原鎌足の長男です。上の写真で大きな人がもちろん、鎌足です。
小さい方の右が定慧、左が不比等です。
定慧は白雉4年(653)5月に出家し、遣唐使に従って入唐します。
わずか11歳の時の事でした。
遣唐使はまもなく帰ってきますが、定慧はその人たちと一緒に戻ってきませんでした。
彼は、唐を発っても、途中百済に立ち寄り、そこに長いこと滞在したといわれています。
少年にして、懐かしい故郷から千里も離れたところにいるわけですから、彼の心のうちは、どんなだったでしょうか?
定慧がまだ百済に滞在していた654年に彼の実の父親である孝徳天皇が亡くなります。
■『定慧出生の秘密』
病死となっていますが、私は、中大兄皇子の謀略によって殺されたと見ています。
孝徳帝の死には謎がたくさんあります。
すでに述べたとおり、孝徳帝は、大化の改新の8年後の653年に、中大兄皇子と遷都問題で対立して、当時の都・難波に置き去りにされています。
この事件については『軽皇子と中大兄皇子』で説明しています。
この時、中大兄皇子は叔父を殺害するつもりだったと思います。
ところが鎌足に止められたのでしょう。やめています。
孝徳帝は、甥の中大兄皇子とは全く正反対な性格で、決断力も、勇気も乏しいし、政治的手腕にも見るべきものがありません。
いわば負け犬になるために生まれてきたような人です。
しかし、甥と比べて一つだけ決定的に秀でたものを持っています。
それは、人を見る目があって、人間的な温かみを持っているということです。
もしくは、人情の機微に通じていると言い換えることができるかと思います。このことについては、『藤原鎌足と軽皇子』で説明しています。
もし、軽皇子が人としての良さを何一つ持っていなかったとしたら、鎌足から、とっくの昔に見放されていたでしょう。
事実、鎌足は、蘇我入鹿を暗殺するとき、初めは、孝徳帝(軽皇子)と一緒にやろうとしますが、決断力と勇気に欠けているのを見抜いて、彼に見切りをつけて、中大兄皇子と組んで実行しました。
詳しいことは『藤原鎌足と六韜』で説明しています。
しかしその一方で、鎌足は、この軽皇子の使い道を知っており、決して見捨てませんでした。
中大兄皇子には、決断力、勇気、政治的手腕というように、見るべきものがあります。
しかし、彼の性格的な欠陥から、敵も多かったようです。
そのような理由から、中大兄皇子が皇位につくことを良く思わずに、反対するものが多かったのです。
こういう時に、まさに、お飾り天皇に、もってこいなのが軽皇子と言うわけです。
彼は人情の機微を知り尽くしていますから、人事において、その才覚を発揮できます。
不満を聞いたり、人事のごたごたをまとめたり、そのような役にはぴったりの人だったようです。
孝徳帝は、人並み以上の権力欲があるとは思われませんが、しかし、いつまでもお飾りでいることに満足しているとも、思えません。
おそらく、アヒルの水かきではありませんが、甥に隠れて、見えないところで人脈を形成していたことでしょう。
この辺のやり方は、軽皇子当時、鎌足に寵妃・小足媛をあてがったやり方で見るとおり、実にうまい。
しかし、これが、中大兄皇子には我慢ならなかったようです。
旧都で、間人(はしひと)皇后にも家臣にも見放された状態で、孤独のうちに病死したことになっています。
もちろん、そんな単純なことではなかったはずです。
この時、おそらく誰もが、中大兄皇子の即位を予測したことでしょう。
しかし、実際には、孝徳帝が病死したのではなく、殺害されていますから、中大兄皇子も考えたようです。
そこで即位すると、邪魔者を消して皇位についたと見られはしないか?
孝徳帝の謀殺と中大兄皇子の関係が見え見えになってしまいます。
そこで、皇極天皇であった彼の母親を説得して、もう一度天皇になってもらったわけです。
これが斉明天皇です。
したがって、この時もし中大兄皇子が皇位についていたら、鎌足は、定慧を百済から呼び寄せることができました。
しかし、そうなっていない以上、孝徳帝の息子を日本へ呼び戻すわけには行きません。
それこそ新たな政争の種をまくことになります。
それどころか、中大兄皇子の猜疑の目が鎌足に向けられないとも限りません。
定慧を還俗させて新たな政権を打ち立てるのではないかと。。。
(すぐ下のページへ続く)