なぜ唐に留まったの?(PART 2 OF 3)
そのような事情で、定慧は更に百済で足止めを喰らいます。
しかし、もちろんその間、無為に過ごしていたわけではありません。
では一体何をしていたのか?定慧が、高句麗でなく、また新羅でもなく、百済に滞在していたというには訳があります。
鎌足の父親の御食子(みけこ)が百済からやって来たからです。
詳しいことは『藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた』で説明しています。
したがって、定慧は、御食子の実家の世話になっていたわけです。
定慧の情報収集活動
定慧は出家して坊さんになっていました。
この当時の坊さんというのは、現在の坊さんと違って、権力を握る人たちと交際を持つ機会に恵まれています。
仏教を国教にするという時代です。
仏教を政治の手段として利用していたという事実を忘れることができません。
したがって、坊さんになると情報をつかみやすいわけです。
端的に言ってしまえば、頭を丸めたスパイです。
この良い例が、聖徳太子の若い頃からの個人教授を勤めた僧の慧慈(えじ)です。
高句麗からやってきましたが、後に、呼び戻されて、祖国へ帰ってゆきます。
もちろ時の高句麗王に、日本情勢をこと細かく報告するためです。
この人については『朝鮮三国の緊張関係―聖徳太子の師・高句麗からの僧・慧慈(えじ)』で説明しています。
この当時の朝鮮半島は、非常な緊張状態にありました。
663年に百済が滅びます。その5年後には高句麗も滅びます。
そのようなわけで、定慧はのんびりと、百済で息抜きしていたというわけではありません。
鎌足とは彼の手下を通じて、連絡を取っていたでしょう。
したがって、いろいろな面で御食子の実家の援助を受けながら、できうる限りのツテを頼って情報を収集していたはずです。
得られた情報は、手下を通じて、鎌足に送られていたでしょう。
これらの情報は、やがて始まる、本格的な戦争のための資料として、鎌足と中大兄皇子の元へ達したはずです。
やがて、日本と百済の連盟軍は、唐と新羅の連合軍と白村江で戦闘状態に突入します。
しかし、百済と日本の水軍は致命的な痛手を負って敗れます。
そして百済は滅びます。
パニック状態になった敗戦国からは、貴族から庶民にいたるまで、ぞくぞくと難民が日本へやってきます。
百済朝廷の実力者たちも、天智帝を頼りにやってきて、彼の回りに、新百済派と呼ばれる派閥が形成されてゆきます。
天智天皇は、背水の陣を引きます。
この次は、唐と新羅の連合軍が日本へ攻めてくるという想定の元に、大防衛網計画を立てます。
663年の白村江の戦いで敗れたことは、天智帝(まだ正式には天皇ではありませんが、政治を担っています)にとっては、決定的な痛手でした。
先ず人望を失いました。これとは反対に、多くの人が、大海人皇子になびいてゆきます。
この当時、大海人皇子は、新羅派の統領として天智帝と対立していました。
百済に援軍を送ることなど、もともと反対でした。
白村江で敗れたとはいえ、当時の大和朝廷は、まだ唐と新羅の連合軍に占領されたわけではありません。
しかし、問題は白村江で大敗したという一大ニュースです。
おそらく、天智天皇は『一億玉砕』をさけんで、しきりに当時の大和民族の大和魂を煽り立てたでしょう。
しかし厭戦気分が広がります。
それを煽り立てるのが大海人皇子を始めとする新羅派です。
天智帝は、国を滅ぼされて続々と難民として日本へやってきた百済人に援助の手を差し伸べます。
しかし戦費を使い果たした上に、さらに重税が割り当てられるのでは、大和民族にとっては、たまったものではありません。
そういう税金が百済人のために使われると思えば、ますます嫌になります。
天智天皇の人気は底をつきます。そればかりではありません。天智天皇はもう必死になって、九州から近畿地方に至る大防衛網を構築し始めます。
(defence2.gif)
天智王朝に対する不満
天智天皇は大きな間違いを犯します。
唐・新羅同盟軍の侵攻を防ぐために、天智帝は上の地図で示したような、一大防衛網を築いたのです。
そのために、何十万人の人々が動員されました。
天智天皇の防衛計画を本当に理解している人は、おそらく10パーセントにも達しなかったでしょう。
「何でこんな無駄なことをさせられるのか?」大多数の人は理解に苦しんだと思います。
魏志倭人伝に書いてあるとおり、原日本人というのは、伝統的に町の周りに城壁を築くようなことをしません。
したがって、山城を築くようなこともしません。 これは朝鮮半島的な発想です。
原日本人にとって、山は信仰の対象です。
聖域に入り込んで、山を崩したり、様相を変えたり、岩を積み上げたりすることは、神を冒涜することに等しいわけです、このことだけをとってみても、天智天皇は土着の大和民族から、総スカンを喰らう。
「今に見ていろ。きっとバチが当たるから!」
しかも、これだけでよせばいいのに、東国から、防人(さきもり)を徴用する。
この防人というのは、九州の防衛に狩り出される警備兵です。
往きは良い良い帰りは怖いです。
というのは、帰りは自弁当です。つまり自費で帰国しなければなりません。
したがって金の切れ目が命の切れ目で、故郷にたどり着けずに野垂れ死にをする人が結構居たそうです。
それはそうでしょう、新幹線があるわけでありませんから、徒歩でテクテクと九州から関東平野までテクシーです。
ホテルなんてしゃれたものはもちろんありません。
途中で追いはぎに襲われ、身ぐるみはがれたら、もう死を覚悟しなければなりません。
さんざ、こき使われた挙句、放り出されるように帰れ、と言われたのでは天智天皇の人気が出るわけありません。
人気どころか怨嗟の的になります。
「今に見ていろ。きっとバチが当たるゾ!」
新羅派(天武派)の暗躍
こういう状況の中で、新羅派が暗躍し始めます。
天智天皇はすでに豪族の支持はもちろん、民衆の支持さえ失っています。
こういう状況の中で何も起こらなかったなら、起こらないほうが不思議でしょう?
ところで、新羅派と言われる人たちが、なぜ反天智運動を展開する必要があるのか?
それは、伝統的に中国王朝がとってきた『近攻遠交』と呼ばれる戦略に関係しています。
これは、どういうものかというと、読んで字のごとく、近い国を攻めるために、遠い国と親しく交際し、この近い国を挟み撃ちにして攻略する、と言うものです。
唐・新羅連合と言う結びつきは決して永続的なものではありませんでした。
お互いが相手を利用すすために、一時的に結束しているに過ぎません。
どちらかが、相手の利用価値を認めなくなった時が、縁の切れ目です。
百済が滅び、高句麗が滅びます。
次は、自分たちが唐に飲み込まれてしまうということを、新羅人はよく知っています。
縁の切れ目が見え見えです。
そういうわけですから、新羅人は文字通り背水の陣をしきます。背後は海です。しかし海の向こうには日本がある。
今度は、新羅を攻めるために、唐が『近攻遠交』戦略を採るとしたら日本と組む以外にありません。
もし先を越されでもしたら、新羅の命は風前の灯となります。
したがって、新羅人は、もう何とかして、日本に親新羅派の政権を打ち立てなければなりません。
そうでもしないと、唐が必ず日本と組んで自分たちを滅ぼします。
すでに、述べたように、天智と天武は百済派・新羅派に別れて、対立している状態でした。
このようなことをスパイ網を通して知っている唐は、この当時しきりに使者を送って、天智政権を懐柔しようとしています。
しかも悪いことに、天智帝は、すでに述べたように、豪族にも、民衆からも見放されています。
したがって、四面楚歌の天智政権は、唐と仲良くしてゆく以外にありません。
新百済派(旧百済朝廷遺臣)と
旧百済派(鎌足派)の対立
定慧から送られてくる情報によって、鎌足は、的確に当時の半島情勢を把握しています。
しかし、新百済派に取り囲まれている天智天皇は、防衛網構築に躍起になっており、唐に対する外交政策を強力に推し進めようとする鎌足を煙たい存在に思い始めています。
しかも、鎌足に敗戦の責任までなすりつけようとしています。
上の地図で見るように、かなりの数の山城を九州から近畿にかけて築き、また九州には大規模な水城を構築しています。
これらは、百済から逃げてきた技術者や、戦略家の指導の下に進められているもので、この頃には、実戦経験、実務経験の豊富な百済人がどしどし登用されて、鎌足を中心として活躍していた旧百済派は次第に影の薄い存在となりつつありました。
それでも、鎌足は天智帝に唐と仲良くしてゆく以外にないことを説きます。
しかしこのことは、新百済派の人たちにとっては、どうしても承諾できないことです。
「祖国を滅ぼした唐と日本が連合する?そんな馬鹿なことができるか!」
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定慧が日本へ帰って来た665年という年は、まさに、天智朝廷では、このような議論が沸騰しているときでした。
そのようなときに、定慧が、唐からの書状を携えてやって来るということをキャッチした新百済派の連中は、急遽天智帝を交えての緊急会議です。
天智帝にしてみれば、まだ唐に敗れたという生々しい記憶が脳裏に焼きついています。
しかも、定慧は、憎き孝徳帝の息子です。
「何で唐の手先などになって帰ってくるのだ!」
それで決まりです。
藤原氏の家伝には、「百済人に妬まれて殺された」となっています。
しかし、これは、新百済派の刺客によって殺されたと書くべきでした。
しかも、天智帝はすべてを知っていたのです。
定慧は11歳のときに日本を離れてから12年間に及ぶ唐・百済の旅を終えて天智4年(665)年9月に、やっと故郷へ帰ってきます。
しかし彼を首を長くして待っていたのは鎌足だけではありませんでした。
懐かしいふるさとの風景に浸っていたのはわずかに3ヶ月でした。
定慧はスパイ活動をしていましたから、身の危険については十分に知っていたでしょう。
しかし、グループで襲われたなら防御のしようがありません。
12月23日に、23歳の若さで亡くなります。
数奇な運命の下に生まれて、異国で暮らさなければならなかった定慧が懐かしい日本へやっと帰り着いて、ほっとする暇もないうちに、まだこれからという人生の幕を閉じなければならなかったのです。
この事件によって、鎌足親子と天智帝の間には、修復が不可能なほどに亀裂がはいってしまいます。
この時不比等は大海人皇子と組んで天智政権を打倒することを決心したのでした。
『定慧の死の謎を解く』より
(2003年7月25日)
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