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ピカソと凡人(PART 2)

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ピカソと凡人(PART 2)


本質的な視点とは?



20世紀への変わり目、科学は二つの大きな未解決の問題をかかえて、まったく混沌としていた。 第一に、二つの物理学の体系である古典力学と電磁気学のあいだに不整合が存在していた。 第二に、遠く光を伝える媒体として考えられたエーテルが、宇宙空間に存在するのかという問題である。 この二つの問題による不安定さによって、相対性理論の登場する機が熟したといえるが、その不安定な世相が当時の芸術家たちの作品に反映されたと考えることもできる。

逆に、後期印象派の巨匠たちが物理学における問題を解決する手だてを少しでももっていたと考えるのは、もちろん無理がある。 また、物理学における不安定な状況は、19世紀末にヨーロッパ文化や知識人たちのあいだで蔓延していた世相を反映していただけということもできる。 したがって、芸術が物理学の大発見を予示したというよりは、芸術と物理学の発展が平行して起こったと考えたほうが妥当だろう。

不幸なことに、科学者と芸術家が話し合うことはめったにない。 しかしながら、芸術と科学における変革は同じ根をもっている。 それは、ものごとの本質が従来の見方ではとらえきれないこと、そしてそれらを従来の描き方では描ききれないということへの気づきである。 物理学では、量子力学がまったく新しい見方で物理的問題に迫る方法を提示した。 量子力学を確立した人たちは、今までのニュートン流ではなく、抽象的でもっと「本質的」な方法で現実を表現した。 それに並行する視覚芸術の流れでは、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックといたキュビズムの例がある。 ピカソの有名な絵画《アヴィニョンの娘たち》(1907)は、見かけの姿ではなく、その本質を反映させた抽象的な姿で女性を表しているといえる。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)



102 - 103ページ
『モナ・リザと数学』
著者: ビューレント・アータレイ
2006年5月1日第1刷発行
発行所: (株)化学同人




つまりなァ、ピカソはバルセロナの娼婦を描きたかったのやァ。 そやけど、誰もが目にするような。。。要するに凡人が描くような娼婦を描くのではつまらん。 そう思うたのやがなァ。



つまらなかったら描かなければええやん。

そやけど、ピカソはどうしても描きたかったのやァ。

だったら、ゴタゴタ言わずに描けばええやん。

そこでピカソは悩んだのやがなァ。。。つまり、従来の画家が描いているような娼婦を描くのやったらつまらんと思うたのやァ。。。そこで、ピカソは従来の描き方では描ききれないモノを描こうと思うたのやァ。

それで描きはったのが「アヴィニョンの娘たち」ということやのォ〜?

そうやァ。。。結果として「キュビズム」という描き方になったァ。。。要するに、アインシュタインと同じようにピカソも時代の落とし子やったのやァ。





アインシュタインがニュートン力学で考えると、古典力学体系では、どうにも、とらえきれないことにぶつかった。 ちょうどピカソがバルセロナの娼婦を見た時のように考え込んでしもうたのやァ。 アインシュタインは、そこから特殊相対理論を生み出しおった。 ピカソは、バルセロナの娼婦から、従来の描き方とは違う本質的な見方で「アヴィニョンの娘たち」を生み出しおったのやァ。


【レンゲの独り言】



ですってぇ~。。。
なんとなく、こじつけ見たいに聞こえますよね。



いずれにしてもピカソがもし上のようなオーソドックスな絵を描かずに、初めから「アヴィニョンの娘たち」を描いていたら、おそらく周りの人はピカソを精神病院へ送り込んだと思いますわ。
精神病になると、ある能力が消えて、ひとりでにピカソの絵みたいなものを描くケースがあります、とお医者さんも言っているほどです。
あなたは、どう思いますか?

とにかく、次回も面白くなりそうですわ。
あなたもどうか、またあさって読みに戻ってきてくださいね。
では、また。。。






ィ〜ハァ〜♪〜!

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こんにちは。ジューンです。

ピカソの生涯は「アヴィニョンの娘たち」のように

常識では考えられないような

起伏に富んだものでした。

ピカソは生涯に2度結婚し、

3人の女性との間に4人の子供を作りました。

ピカソがパリに出て最初に付き合ったのは

フェルナンド・オリヴィエでした。

「青の時代」と「桃色の時代」をへて

富と名声を得ると、つぎにエヴァという名前で知られる

マルセル・アンベールと付き合いました。

ピカソは彼女を讃えるために、作品に

「私はエヴァを愛す」(J' AIME EVA)、

「私の素敵な人」(MA JOLIE)などの言葉を

書き込みました。

しかし彼女は癌を患い、1915年に亡くなりました。

1916年には、バレリーナで貴族出身の

オルガ・コクローヴァと知り合い、

1918年に結婚しました。

オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、

ブルジョワ趣味を教えたのです。

二人のあいだには息子、パウロが生まれました。

ピカソは初めの内こそ妻に調子を合わせていましたが、

しだいに生来のボヘミアン気質が頭をもたげ、

衝突が絶えなくなりました。

1927年には、ピカソは17歳の

マリー・テレーズ・ワルテルと出会い、

妻に隠れて会うようになりました。

ピカソはオルガと離婚しようとしましたが、

資産の半分を渡さねばならないことがわかり

中止したのです。 (微笑)

ピカソとオルガの結婚は、

1955年にオルガが亡くなるまで続きました。

マリー・テレーズと密会を続けていた1935年には

娘、マイアが生まれました。

またピカソは1936年から1945年まで、

カメラマンで画家のドラ・マールを愛人にしていました。

彼女はピカソ芸術の良き理解者でもあり、

『ゲルニカ』の制作過程を写真に記録しています。

1943年には、ピカソは

21歳の画学生フランソワーズ・ジローと出会い、

1946年から同棲生活を始めました。

そしてクロードとパロマが生まれました。

しかし、フランソワーズはピカソの支配欲の強さと

嗜虐癖に愛想をつかし、

1953年、2人の子を連れてピカソのもとを去りました。

ピカソは大きなショックを受けました。

フランソワーズはピカソを捨てた

唯一の女性と言われています。

しかしピカソはすぐ次の愛人の

ジャクリーヌ・ロックを見つけました。 (微笑)

彼女は南仏ヴァロリスの陶器工房で働いていたところを

ピカソが見そめたのです。

それで1961年に結婚したのです。

でも、この結婚は、ピカソのフランソワーズに対する

意趣返しと言われました。

当時フランソワーズはクロードとパロマの

認知を得る努力をしていたので、

ピカソはフランソワーズに

「結婚を解消すれば、入籍してあげてもいい」

と誘いかけたのです。

これに乗ってフランソワーズが相手と協議離婚しました。

でも、ピカソは既にジャクリーヌと結婚していたのです。

なんとも波乱に富んだ人生でした。

ところで、英語の面白い話を集めました。

時間があったら覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。





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