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ピカソと凡人(PART 1)

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ピカソと凡人(PART 1)




ピカソの秘密



ピカソの絵については、岩田誠・東京女子医大教授が興味深い分析をしています。 例えばキュービズム時代の絵は空間は位置がメチャクチャです。 鼻が横を向いていて、顔が正面向いているというのがザラですから、メチャクチャだと見られても仕方が無い。
しかし、あれは一つ一つのデッサンはかなり正確に描いている。 つまり、モデルである人間や物をあちこちから見て描いたものをゴチャまぜにして合体させたようなものになっています。
通常、デッサンに必要な空間配置の大事な四つの機能のうちの一つです。 それが壊れたままであると、その人にとって世界は、ピカソのキュービズムの絵になってしまいます。 もちろん、ピカソ自身は日常生活を普通に営んでいたし、ご存知の通り、初期には非常に正統派のわかり易い絵を残しています。 では、彼はどうやって、キュービズムの絵を描けたのか。

それは別に、一人のモデルをあちこちから見てデッサンしたものをツギハギであとで組み合わせた、ということではありません。 おそらく彼は意識的に、絵を描く際に、ノーマルな空間配置の能力を消し去ったのです。 ピカソはそれを意識的に行っていた。 病気になると、ある能力が消えて、ひとりでにピカソの絵みたいなものを描くケースがありますが、ピカソ自身は、健康なのに意図してああいう絵が描けた。

(注: 赤字はデンマンが強調
イラストはデンマン・ライブラリーより)



143 - 144ページ
『バカの壁』 著者: 養老猛司
2004年1月30日 第45刷発行
発行所: 株式会社 新潮社




デンマンさん。。。あんさんは、どうしてピカソのおっさんを持ち出してきやはったん?



めれちゃんは、ピカソのおっさんが嫌いなのか?

別に嫌いではあらへん。。。そやけど、好きでもないねん。

さよかァ。。。でもなァ、めれちゃんは横尾忠則のファンやからピカソの話もおもろいと思うでぇ〜。。。

あんさんは、どないな訳でそないな事を言わはるのォ〜?

そやかてぇ、めれちゃんは次の手記を書いていたやはないかいなァ!



読書して怒られる
 



2006/05/11 14:16

子供のころから、
家にはたくさんの本がありました。

わたしは江戸川乱歩の少年探偵団を、
よく読んでいたのですが、
そのうち、飽き足らなくなったのか、
親が持っていた「江戸川乱歩全集」を、
愛読するようになりました。

しかし。
その全集には、
横尾忠則氏の挿絵がついていて、
えっちなんです。
なので、親には読んじゃダメと
言われていました。
(だったら、かくしといてくれ)

わたしはこっそりかくれて、
そのえっちな江戸川乱歩の本を、
読んでいたのでした。
しょっちゅう見つかって、怒られました。

さらに。
印象的なのが
「チャタレイ夫人の恋人」です。
もちろん禁止本です。
禁止されたら、読むに決まってます。

・・・ませガキ。
・・・エロガキ。

by めれんげ



「めれんげの日記」
『だれかつっこみいれて!』より

『エロい文学少女』に掲載
(2007年4月11日)





わたしは横尾さんのファンではあらしまへんがなァ。



そやけど、めれちゃんは横尾さんのエッチな挿絵を楽しんでいたようやないかいなァ。

別に楽しんでいたわけやおまへん。

さよかァ〜。。。?

。。。で、横尾さんがピカソのおっさんのことで何か書きはったん?

そうなのやァ。 次のような事を書いてるねん。


ピカソの四次元論



ピカソの「アヴィニョンの娘たち」はピカソの代表作であるだけではなく、20世紀美術を語る上でももはや最も重要な作品のひとつになってしまった。 この作品はニューヨーク近代美術館の目玉商品として常設展示されているので観た人も多いと思う。 「アヴィニョンの娘たち」について通りいっぺんの解説をしてしまうと次のようになるかと思う。

つまりこの作品によってキュビズムが始まった。 描かれている女性達はバルセロナの娼婦。 その様式はアフリカの彫刻やイベリア半島の古代彫刻の影響を受けたものである。 作品が発表されたのは制作されてから9年後。
というわけで、この絵を初めて見た友人のアンドレ・ドランは、
「ピカソはこの絵のキャンバスの裏側で首を吊って死ぬだろう」
とまで言った。 制作されて9年も経(た)つというのにこのあまりの斬新さ故に画家仲間でさえついていけなかたのである。 マチスなどは怒りをあらわに、「彼を葬(ほうむ)ってやる」とさえ息まいている。

 (中略)

この作品によってキュビズムが誕生することになるのだが、一般的にはキュビズムは二次元という平面において三次元という立体を表現しようという試みだが、ピカソは立体の各面を展開図のように見せることによって、実は四次元を表現してみたかったと語ったことがある。

 (中略)

ピカソがあれほどまでに影響を受けたというアフリカやイベリア彫刻だが、彼が興味を持ったのはあくまでも彫刻の表層部分である。 



ここでぼくにはひとつの疑問と不満が生じるのだった。 あれほどピカソがこれらの彫刻から強烈な霊感を得たのであったら、なぜ彫刻をものした黒人たちの霊感に興味をも持たなかったかということである。 (中略) 宇宙にあまねく存在する情報の記憶装置を回路として、黒人彫刻家の中に伝達されるインスピレーションをキャッチするシャーマンの能力と技術があのような作品を生むのである。 だったらなぜピカソがシャーマンになることを求めようとしなかったのだろうかという疑問なのである。 (中略) ぼくはこのことを残念に思うものである。 芸術は常に受身で迎え入れるもの、つまり「迎術」ではなかったのかというのがぼくの創造の源泉になっているから、ついピカソにも文句を言ってみたくなるのだった。

さて、裸婦について語ることを忘れていたわけではない。 ピカソは当初の目的としては、アヴィニョー街の娼婦を描くつもりであったはずである。 ところが、絵はひとりでにピカソの筆によってどんどんあらぬ方向に走り始めた。 ピカソの思いから勝手に絵が自立していったのである。 こんな状況の中でピカソは「絵は画家より強い」とも述懐している。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)



45 - 50ページ
『名画裸婦感応術』
著者: 横尾忠則
2001年6月15日 初版第1刷発行
発行所: 株式会社 光文社




横尾さんの書きはったものがどうやと、あんさんは言わはるの?



あのなァ〜、横尾さんはやっぱり画家になろうとしただけのことはあって、作家や学者とはちごうてぇ、観念的な事だけではなく、なるほどと思わせるようなことを言うてるねん。

たとえば。。。?

例えば、次のように書いてるねん。

ピカソは立体の各面を

展開図のように見せることによって、

実は四次元を表現してみたかった

...

ピカソの思いから勝手に

絵が自立していったのである。

「絵は画家より強い」

作家や学者とはちごうてぇ、実際に絵筆を取った横尾さんは目の付け所がちごうているのやがなァ。

四次元を表現してみたいとピカソのおっさんは言うたようやけど、2次元のキャンバスの上で4次元を表現しようということは初めから不可能なことやんか!

そやから、その辺が我々凡人と違うところなのやァ。 芸術家として不可能に挑戦したのやがなァ。

わたしは、その事よりもアフリカの彫刻が大いにピカソのおっさんに影響を与えたと思うねん。

めれちゃんは、どうして、そう思うのや?

アフリカの彫刻を見ると、なんとのう「アヴィニョンの娘たち」に似ているやんかァ!







わてには似ているように思えんなァ〜。。。



わたしはマジで似てると思うねん。 主観の相違ということやわ。 とにかく、ピカソのおっさんの経歴を見るとアフリカの彫刻とキュビスムは切っても切れない関係にあるのやでぇ〜。 あんさんも次の経歴をじっくりと見たらええやん。


ピカソ



生誕: 1881年10月25日
死去: 1973年4月8日

作風
ピカソは作風がめまぐるしく変化した画家として有名であり、それぞれの時期が「◯◯の時代」と呼ばれている。以下がよく知られている。

•青の時代(1901年-1904年)
親友カサヘマスの自殺にショックを受け、青色無機顔料のプロシア青をベースとする暗青色を基調として、軽業師、アルルカン、売春婦、乞食、芸術家などを描いた。

•バラ色の時代(1904年-1907年)
フェルナンド・オリヴィエという恋人を得て、明るい色調でサーカスの芸人などを描いた。

•アフリカ彫刻の時代(1907年-1908年)【26−27歳】
アフリカ彫刻の影響を強く受けた。この時期にキュビスムの端緒となる『アビニヨンの娘たち』が生まれた。

•セザンヌ的キュビスムの時代(1908年後半)
アフリカ彫刻とセザンヌを両親として、キュビスムが胎動しはじめた。

•分析的キュビスムの時代(1909年-1912年)
モチーフを徹底的に分解し、絵は極度に抽象的かつ禁欲的なものになった。

•総合的キュビスムの時代(1912年-1918年)
ロココ的キュビスムとも呼ばれる。色彩と装飾性が特徴で、コラージュ技法も生まれた。

•新古典主義の時代(1918年-1925年)
古典的かつ量感のある母子像を描いた。

•シュルレアリスムの時代(1926年)
化け物のようなモチーフが描かれた時期で、妻オルガとの不和が反映していると言われる。代表作は『ダンス』『磔刑』など。

•ゲルニカの時代(1937年)
フランコのゲルニカ爆撃を非難し、『ゲルニカ』と、そのための習作(『泣く女』など)を描いた。

(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)



出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




上の経歴を見れば、ピカソのおっさんがアフリカ彫刻の影響を強く受けて、キュビスムの端緒となった『アビニヨンの娘たち』を描いたという事が判るやろう?



確かにアフリカ彫刻はピカソに影響を与えたのやろなァ。

そうですやろう!? あんさんにも判りますやろう?

そやけどなァ、ただ似ているからアフリカ彫刻の影響を受けているというのは安直な考えやと思うでぇ〜。。。

そいで、あんさんは他に何がピカソのおっさんに影響を与えたと思うてるん?

もっと本質的なことやと、わては思うでぇ〜。。。

本質的なことってぇ、具体的にはどのようなことやのォ〜?

 (すぐ下のページへ続く)


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