あえかな味@そば湯(PART 2 OF 3)
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おいしいとか、おいしくないとか、ありきたりの味覚を超えている。
これほどの落ち着きをひとに与える味があったのか。
それがそば湯だったとは。
すこし動揺していた。
あのねぇ〜、上の本の著者・平松洋子さんは、近所のそば屋で食べていたら、このような気持ちにはならなかったのですよう。 “非日常”の中で蕎麦を食べたので、たまたま感性が研ぎ澄まされていたのですよ。
“非日常”の中で蕎麦を食べたァ〜。。。?
そうですよう! 次のように書いてあるでしょう!
そば湯の味わいに気づいたのは、旅さきの出雲だった。
地元のなんでもないそば屋の暖簾をくぐり、そば湯の入った湯桶を傾けて猪口に注いで、啜った。
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すると、どうだろう。
とろりと濃厚なそば湯が舌のうえに流れこむと同時に、やわらかい香りがふくよかに広がる。
ああ、そばの香り。
そばの持ち味が湯のなかに溶け出た、たっぷりふくみのある舌触り。
そのなかに腰をおろしているのは、確かな安心の気配。
出雲という“古代”を感じさせる雰囲気の中で“非日常”を感じていた。 だからこそ、普段よりも感性が研ぎ澄まされていた。 それで、あの不味い“そば湯”にあえかな味を探し当てることができたのですよ。
なるほどォ〜。。。 確かに、そのようなことがあるかもしれませんわァ。
あるかもしれないじゃなくてぇ、事実、出雲という“非日常の世界”に居たから、普段ならば気づかないあえかな味を感じることができたのですよ。
なるほどォ〜、それで解りましたわ。
何が解ったのですか?
デンマンさんは次のようなお手紙をお母様に書いていましたわよねぇ。
2014年6月10日 (火曜日)
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母上様、お元気ですか?
関東地方は暑い日が続いているようですね。
でも、もう梅雨に入っているでしょうか?
ジメジメ、ムシムシした天気にもめげずに元気で楽しく過ごしてくださいね。
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バンクーバーは とても過ごしやすく清々しい朝を迎えるようになりました。
今朝は、いつになく涼しくて気温が12度ですよ。
昨日は すばらしく晴れ渡っていましたが、今朝はどんよりとした曇り空です。
5月29日には電話をありがとうございました。
久しぶりに母上様の元気なお声が聞けて安心いたしました。
5月30日の消印の手紙は 6月6日に受け取りました。
母上様が予測したとおり 6月6日に手にいたしました。
“桜井の別れ”の歌が書いてありました。
実は、初めて読む歌です。
全く知りませんでした。
『ウィキペディア』という無料百科辞典がコンピューターを使うと利用できるのです。
さっそく調べてみましたよ。
“桜井の別れ”は、西国街道の桜井の駅で楠木正成・正行父子が訣別する逸話なのですね。
桜井の駅で別れた後、正成は湊川の戦いに赴いて戦死し、今生の別れとなりました。
「桜井の駅の別れ」、「桜井の訣別」とも言う。
なるほど。。。
古典文学『太平記』の名場面のひとつで、国語・修身・国史の教科書に必ず載っていた逸話で、いわゆる戦前教育を受けた者には大変有名な話だった、と書いてあります。
なるほど。。。
戦前の教育を受けた母上様だから知っていたのでしょうね。
日本の唱歌の一つですか?
残念ながら小生は聞いたこともありません。
作詞:落合直文 作曲:奥山朝恭
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桜井の駅まで進軍して来た正成は意を決し、息子・正行を呼び、「兵庫へは討死覚悟で出陣するが、汝は故郷へ帰るように」と告げる。
正行は「いかに父上の命とは言えど、年若くとも死出の旅の供をしたい」と願い出る。
正成は「私の死後は足利尊氏の天下となろう、その日に備え成長し、国の為に天皇に仕えよ」と諭(さと)す。
さらに先年、天皇より賜った刀を差し出し、これを我が形見にせよと言い残し、「老いた母の元に帰れ」と正行に告げ、両者は泣く泣く別れ行く。
なお、史実では、正行の母(南江久子)は正成より年下であり、当時三十代であったと考えられるから、高齢ではない。
『太平記』によると、「桜井の別れ」のあらましは次の通りだそうです。
建武三年五月(1336年6月)、九州で劣勢を挽回して山陽道を怒濤の如く東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に対し、その20分の1ほどの軍勢しか持たない朝廷方は上を下への大騒ぎとなった。
新田義貞を総大将とする朝廷方は兵庫に陣を敷いていたが、正成は義貞の器量を疑い、今の状況で尊氏方の軍勢を迎撃することは困難なので、尊氏と和睦するか、またはいったん都を捨てて比叡山に上り、空になった都に足利軍を誘い込んだ後、これを兵糧攻めにするべきだと後醍醐帝に進言したが、いずれも聞き入れられなかった。
そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになった。
その途中、桜井の駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。
「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。
帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族朗党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。
数えで11歳ということは満で10歳ですよね。
今で言えば、正行は小学校3年生か4年生でしょう!?
とても戦場に出て戦える年齢ではないですよね。
正成が亡くなったのは1336年。
生まれたのは1294年。
つまり、満42歳で亡くなっているのです。
正行は数え年11歳ではなく、すでに20歳になっていたという話もあります。
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正行の母(南江久子)は、当時三十代であったそうですから、36歳とすれば 20歳の息子がいても昔ならば可笑しくないはずです。
室町時代ならば14歳で結婚して 15歳で子供を生んでも不思議ではない。
小生の考えでは、正行は少なくとも戦場に出る年になっていたろうと思います。
つまり、18歳か19歳にはなっていたろうと。。。
では、どうして数え年11歳にしたのか?
修身の教科書に載せて軍国教育、富国強兵政策のために小学生を教育するならば、同じ小学生の年頃に設定した方が教育の効果が上がると当時の文部省のお役人は考えたのでしょうね。
“天皇陛下に万歳して戦死するように教育する”には、20歳前後だった正行を 数え年11歳にした方が効果があると思ったのですよ。
その方が“お涙ちょうだいの物語”になります。
「老いた母の元に帰れ」と正行に告げ、両者は泣く泣く別れ行く。
しかし、この時の正行の母は30代だったのですから「老いた母」にしてしまうのは可哀想と言うものです。
でも、修身の教科書には「老いた母」と書かねばならなかったのでしょう。
母上様も、たぶん、この「老いた母」の気持ちになって“桜井の別れ”を聞いたのでしょうね。
この歌が有名だったということは、小生にも理解できます。
なぜならば、小生の同級生の野原自転車屋の息子の名前が“正行”なのですよ。
恐らく、野原君のお母さんは小学校の修身の時間や唱歌の時間に“桜井の別れ”を何度も何度も聞いて、子供が生まれたら息子に“正行”という名前をつけようと考えたのでしょう!?
それほど“桜井の別れ”を聞いて 野原君のお母さんは感動したのでしょうね。
でも、あの正行君は、面白い奴で 戦争がもし起きたとしても 絶対に戦争など行くような男ではありません。
逃げ回りますよう。 (笑)
たぶん、小生と一緒に外国に脱出します。 (爆笑) 間違いありません!
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母上様が小生の名前を“正行”ではなく“明”にしたのは正解でした。
小生は絶対に戦争になど行きません。
もし、1960年代、1970年代に日本とアメリカで戦争があったとしても、小生は“明”るい気持ちでカナダに脱出しましたから。。。
母を悲しませてはならないと信じます。。。 (微笑)
そういうわけで、母上様が元気で長寿に恵まれているのは かえすがえすも喜ばしいことです。
正成の妻のような不幸を舐めなかっただけでも 幸せというものです。
これからも母上様は、皆で仲良く楽しい毎日を送ってください。
一生は一度だけです。
悔いのない思いで来世に行けるよう、心置きなく笑って楽しんでください。
お互いに悔(く)いのない人生を送りましょう。
では、母上様も お元気で。。。
デンマン
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『かしこの母上様』より
(2014年6月12日)
この手紙が どうだと卑弥子さんは言うのですか?
つまり、“非日常の世界”だから お手紙に“母上様”と書けるのですわよう。 日常、デンマンさんはお母様のことを“母上様”とは呼ばないでしょう?
もちろんですよう!。。。 時代劇をやっているわけじゃありませんからねぇ〜。。。
だから、お母様も“非日常の世界”でデンマンさんに お手紙を書いたのですわァ。
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デンマンさん、お元気ですか?
一度は死にました私ですが
暖かく見守ってくれていた家族のおかげで、
そして親戚の方々の励ましによって
生かされています。
また春がめぐってきて、そして夏を迎えようとしています。
生きていることに感謝しないではいられません。
妹の多佳子さんには いろいろとお世話になっております。
デンマンさんからも 宜しくお伝えください。
2週間ほど 行田市にある介護施設「ハートフル行田」で過ごしてきました。
皆さん、気持ちの良い方ばかりで 楽しく過ごさせていただきました。
時には演芸大会ではありませんが
皆で、順番に歌を唄ったりいたします。
私は唄うのは上手ではありませんが、
皆さんが順番に唄うので唄わないわけにはゆきません。
たまたま 思いつくままに「桜井の別れ」を唄いました。
子供の頃の歌というのは、いつまでも覚えているものです。
小さな頃は 意味も良く解らずに唄っていたものですが、
年をとるにしたがって、涙なくしては唄えなくなります。
デンマンさんは知らないと思いますが
次の歌を私が小さな頃はみんなが唄っていたものです。
桜井の別れ
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青葉茂れる桜井の
里のわたりの夕まぐれ
木の下蔭に駒とめて
世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上に
散るは涙かはた露か
正成涙をを打ち払い
我子正行呼び寄せて
父は兵庫に赴かん
彼方の浦にて 討死せん
汝はここ迄来つれども
とくとく帰れ故郷へ
父上いかにのたもうも
見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん 帰られん
此正行は年こそは
未だ若けれ諸共に
御供仕えん死出の旅
汝をここより帰さんは
わが私の為にならず
己が闘死為さんには
世は尊氏の侭ならん
早く生い立ち大君に
仕えまつれよ国の為め
此一刀は往し年
君の賜いし物なるぞ
此世の別れの形見にと
汝にこれを贈りてん
行けよ正行故郷へ
老いたる母の待ちまさん
共に見送り見反りて
別れを惜しむ折からに
復も降り来る五月雨の
誰かと哀と聞かざらん
あわれ血に泣く其声を
この歌のように 昔の人は 命を惜しまなかったのですね。
時代が違うと言えばそれまでですけれど。。。
でも、時代が違うと言えども、命が大切だったことに変わりはないと思います。
正成の息子を思う気持ち。。。
そして妻を思う気持ち。。。
“行けよ正行故郷へ
老いたる母の待ちまさん”
この別れの場面を想うと泣けてきます。
デンマンさんも 命の大切さを改めて考えて、自分のためには もちろん、
カナダのお国のために、
そしてカナダ人のためにも 悔いのないように 毎日を送ってください。
そして デンマンさんの ブログを読んでいる 日本語が解る方々のためにも
生きているということは本当に素晴らしい事だと
お伝えください。
かしこ。。。
母より
平成26年5月30日
僕の母親が“非日常の世界”で上の手紙を書いたと卑弥子さんは言うのですか?
そうですわァ。。。 だから、感性が研ぎ澄まされているのですわ。 そうでもなければ、『桜井の別れ』をお手紙の中に書く気になれなかったでしょうし。。。 そもそも、最近では お手紙の中に “かしこ”という言葉を書く女性は居なくなりましたわァ。
なるほどねぇ〜。。。
何が なるほどなのでござ〜ますかァ〜?
どうして、今日の記事『あえかな味@そば湯』を書く気になったかが解りましたよう。
どうして、でござ〜♪〜ますか?
僕も、今、“非日常の世界”に居るからですよう。 このバンクーバーでの暮らしは、僕にとって“非日常の世界”ですからねぇ〜。。。
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(すぐ下のページへ続く)