オルフェと聖徳太子(PART 2 OF 3)
イザナギとイザナミ
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イザナギ神は、亡き妻に会いたい気持ちが募り、
とうとう死者の国である黄泉国(冥界)まで
イザナミ神を追って行きました。
そして、黄泉の国の御殿の内側にいる
妻のイザナミ神に向かって、言いました。
「いとしい妻よ。
私とオマエで作っている国は、
まだできあがっていない。
どうか、帰ってきておくれ。」
「残念です。あなたが なかなか来なかったので、
私は、黄泉の国で作った食べ物を
食べてしまいました。 だから、もう帰れません。
でも、いとしい夫のあなたが来てくれたので できたら帰りたい。
黄泉の国の神と相談しますわ。
その間、けっして私を見ないでください」
そう言って、イザナミ神は御殿の奥に入ってゆきました。
イザナギは、ずいぶん長い間待ちましたが、
イザナミ神は現れません。
待っていられなくなったイザナギ神は、
ついに髪の左のみづらにさしていた、
くしの歯を一本折って火をともし、
御殿の中に入ってゆきました。
そこで見たイザナミ神の姿には、
なんと、イザナミの体にはうじ虫がたかり、
頭、胸、腹などには雷神がいました。
それを見たイザナギ神は恐れおののき、
黄泉の国から逃げ帰ろうとしました。
すると、イザナミ神は、
「よくも私に恥をかかせましたね。」
と言って追いかけてきました。
イザナギ神は、千人で引くほどの重い大きな岩で、
黄泉比良坂を塞ぎ、イザナミ神と、
その岩を間に置いて向かい合って立ちました。
イザナミ神は、言いました。
「いとしい私の夫よ。
あなたがこのようなことをするのなら、
あなたの国の人を一日千人、殺しましょう。」
イザナギ神が応えました。
「いとしい妻よ。
あなたが千人殺すなら、
私は、一日に千五百の産屋を建てよう。」
こういうわけで、
一日に必ず千人死に、
千五百人が生まれるのです。
こうしてイザナミ神は、
黄泉津大神という名になりました。
この話に出てくる黄泉比良坂は、
出雲国の「伊賦夜坂」 のことであると言われています。
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どうして2つの話が これほど似ているのか? 卑弥子さんは どう思いますか?
偶然ですわ。
あのねぇ〜、偶然にしてはできすぎているのですよ。
だってぇ〜、“オルフェとユリディス(Orpheus and Eurydice)”のお話はギリシャの神話でしょう! 「イザナギとイザナミ」のお話は日本の古代の神話ですわ。 ギリシャと日本という距離を考えれば、偶然だとしか言いようがござ〜ませんわァ。
あのねぇ〜、よ〜く考えてみてください。 時間も距離も越えて『黒いオルフェ』という映画か 1959年に作られた。 つまり、“オルフェとユリディス(Orpheus and Eurydice)”という話には、それほど人の心に訴えるものがある。
つまり、ギリシャ神話の“オルフェとユリディス”というお話が 「イザナギとイザナミ」のお話の出所だとデンマンさんは言うのですか?
もちろんですよ。 ちょっと次の小文を読んでみてください。
なぜ厩戸王子なの?
母親の穴穂部間人皇女が宮中を見回るうちに、馬屋の前で産気づき、そこで出産したからという逸話が日本 書紀などに見られます。
これはキリストの生誕を彷佛とさせます。
実際、キリスト教の一派であるネストリウス派が中国に伝わったのは唐の時代ですから、後世それを拝借して太子の誕生を脚色したのではないか、という説があります。
確証はないけれど、面白い話ですね。
上のようなウェブページを見かけますが、果たして確証がないのだろうか?私が初めてこの話に出くわした時には、 「必ず関連があるはずだ」、という思いに駆られたものです。
なぜか?
すぐに正倉院の宝物が思い浮かびました。
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世界で最も古くガラスが作られたのは,紀元前2300年代以前にさかのぼると言われています。
また、カットによってガラス容器の表面を飾る技法は、 紀元前8世紀ごろ始められたと言われています。
バビロニアのサルゴン王(紀元前722−705)の時代に透明なガラスが出来、カットの技法により削り出し、容器に仕上げる方法が発達しました。
この技法はペルシャのアケネメス王朝(紀元前558−331)のガラス工芸にも受けつがれ、素晴らしいガラス器を生み出すことになります。
ペルシャのササーン王朝時代(226−651)には、アケネメス時代のカットグラスが更に発展し、盛んに製作されるようになりました。
私たちが訪れる奈良の正倉院に現存する、上に示した紺瑠璃杯(こんるりはい)は、このササーングラスの一つです。
(現物はもう少し色が濃いです)
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正倉院というのは、ご存知のように聖武天皇の宝物などを収めた校倉(あぜくら)造りの建物です。
同天皇が没した756年にはすでに建立されていたということが、 最近の研究によって分かりました。
この上に示した紺瑠璃杯(こんるりはい)は4世紀か5世紀に作られたらしいのです。
従って、もし、4世紀に作られていたとすれば、それが、何百人かの商人の手を経て300年から400年かかって、上のシルクロードをたどりながらペルシャから大和へもたらされたことになります。
ということは、もうこの当時から、ペルシャから大和に至る人の流れがあったわけです。
物が運ばれるということは、同時に珍しい話や面白い物語なども、商人の口を通して伝わってくるわけです。
キリストが生まれたのは、紺瑠璃杯が作られた時よりも更に300年程前です。
従って、キリスト生誕にまつわる話が商人の口を通して、聖徳太子が生まれるかなり以前に日本へ伝えられたとしても、時間的に十分考えられることです。
秦氏の祖・弓月君(ゆづきのきみ)
日本書紀」応神天皇14年条に、弓月君(ゆづきのきみ)が百済より人夫120県を領(ひき)いて「帰化する」とあって、この弓月君を「新撰姓氏録」では秦氏の祖としています。
しかし、この弓月君とは、一体どういう人物だったのでしょう?
この人について調べてみたいと思います。
京都には太秦(うずまさ)と呼ばれる土地があります。
太秦(だいしん)とは中国語ではローマ帝国のことを、そう呼びます。
紀元前221年に始皇帝がうち立てた秦という国は、すでに述べたとおり、ペルシャ人を通して西アジアの文明をたっぷり取り入れています。
中国人の目には、西方にあると言う点で、太秦(だいしん)と秦は関連のある国として映っていたのかもしれません。
紀元前207年に、この秦が滅びます。
この滅亡の民の一部が朝鮮に逃れ、秦韓に住んだといわれます。
この人たちの長者が弓月君(ゆづきのきみ)で、応神天皇の時代に、この一族が大挙して日本へ渡来してきました。
弓月君は融通王とも呼ばれる秦氏の祖で、すでに述べたように、応神14年百済より帰化したと書紀に載っています。
秦の始皇帝の5世の孫ともいわれ、のち波多姓を賜っています。
秦氏は、ユダヤ人の景教徒だった?
この「弓月」には、どのような意味があるかと調べてみると、「ユヅキ」は、「ユダ」のことで、太秦の「ウズ」も同じ意味ではないかと述べている研究者がいました。
太子の死後、腹心の秦河勝は追善のため太秦に広隆寺を興しました。
この秦氏の「ハタ」も、司教を意味するヘブライ語「パトリアーク」からきたものだ、と言います。
ハタとは、ネストリウス派では全教会の総主教のことをそう呼ぶそうです。
太秦はイエスを意味するヘブライ語「イシュ・マシャ」から来たものだとも言われています。
このようなことから、秦氏は、ユダヤ人の景教徒だったのではないかと述べています。
また、広隆寺には「伊佐良井の井戸」がありますが、これはイスラエルのことだ、と言う説があります。
この寺域には、また、大酒神社という社(やしろ)があります。
もともとは大闢(だいびゃく)神社といい、この大闢とはダビデのことをいうそうです。
しかも、太秦には非常に珍しい三柱鳥居というのがあります。
ユダヤの「ダビデの星」を模したものだそうで、これは、また、キリスト教の三位一体を表すとも言われています。
なんとなく眉唾くさいと思いながら調べてゆくと、次のような記述に出くわしました。
世界中の神殿で、日本の神社に似たものは紀元前10世紀頃のイスラエル王国のものしかないそうです。
イスラエルの檜づくりの神殿には鳥居に似た二本の柱が立っていました。
神官は禊(みそぎ)をし、白の着物を着て、神に酒と初穂を捧げました。
また、柏手(かしわで)を打って拝みます。
しかも、清めに塩を使い、榊(さかき)に似た小枝でおはらいをしました。
こうしたことから、 日本神道は古代のユダヤ人が持ち込んだと、昭和初期、小谷部全一郎という人が言い出しました。
『なぜ厩戸王子なの?』より
(2003年8月3日)
どうですか、卑弥子さん。。。 古代のユダヤ人が“オルフェとユリディス”という話を持ち込んだとしても決して不思議じゃないでしょう!?
つまり、古事記を編纂させた藤原不比等が その話を基にして 「イザナギとイザナミ」の話を作らせたのでござ〜ますか?
そうですよ。
でも、なぜ。。。?
だってぇ、考えてもみてください。 1959年に“オルフェとユリディス”を基にして『黒いオルフェ』を映画にした人が居るじゃないですかァ〜! 藤原不比等も、この話を『古事記』に載せれば“ウケル”と思ったのですよ。
でも、それは ちょっと考えすぎではござ〜ませんかァ〜?
いや。。。 これまでの話を素直に読んでくれば 卑弥子さんだって なるほどと納得できるでしょう!?
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