甲斐姫と軽井沢タリアセン夫人(PART 2 OF 3)
僕が子供の頃には、“縁切橋” と “涙橋”のエピソードは聞いたことがなかった。 でもねぇ~、四百年も前の悲話が明治時代まで語り継がれてきたというのは すごいと思いますよ。 しかも「甲斐姫」は未だに人気がある。
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だから、行田で催し物が開かれると「甲斐姫」が今でも たびたび出てくるのですよ。 上のイベントもあの「古代蓮の里」で開かれたものですよ。
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それに行田を訪れる観光客にも「甲斐姫」を知っている人が多いから、“忍城おもてなし甲冑隊”の中にも「甲斐姫」が居て、重要な役割を務めているのですよ。
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しかも、それだけじゃなく、ゲームの世界でも「甲斐姫」は人気があるのです。
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どうですか、小百合さん。。。 上のゲームに参加してみませんか?
私は、こういうゲームには関心がないのですわ。
小百合さんは、つまらなさそうですね。。。
タイトルを見たら、私と「甲斐姫」との間に、もっと不思議な関係があるのかなァ~?と、ちょっと期待したのですけれど、期待はずれでしたわ。
あのねぇ~、それほどガッカリすることはありません。 小百合さんと「甲斐姫」の間にも、ちょっとした関係があるのですよ。
まさかァ~。。。?
まさかじゃありませんよ。。。 マジで小百合さんと「甲斐姫」の間にも、知られざる関係があるのです。
そんな事を言っても、これを読んでいるネット市民の皆様は、どうせデンマンさんが取ってつけたような冗談を言うものと思って本気にしませんわァ。
あのねぇ~、小百合さんは館林で生まれ育ったのですよ。 だから、「館林 軽井沢タリアセン夫人」と入れて検索すると 5、410件もヒットするのですよ。
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■『現時点での検索結果』
でも、こうして検索結果まで持ち出してきても、私と「甲斐姫」は関係ないじゃありませんかァ。
あのねぇ~、もう一度次の箇所を読んでみてください。
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橋名の因縁は天正元年(1573年)の四百年も前の事である。
館林城主の長尾但馬守入道景朴は古河公方の旗下となり、足利義輝将軍の御供衆になって娘を近隣の大家忍城成田氏長にやり、北関東に覇をとなえようとした。
しかし意の如くならず、政略結婚の常として氏長に破談をせまった。
そもそも“縁切橋” と “涙橋”にまつわる悲話を生んだのは、館林城主の長尾景朴が「甲斐姫」の父親である成田氏長に破談をせまったからなのですよ。
つまり、私が たまたま館林で生まれ育ったために、破談の責任をデンマンさんは私に擦(なす)り付けるのですか?
もちろん、違いますよ。。。 すでに400年も前の話ですからねぇ~。。。 たとえ、そうだとしても、もう時効が成立しています。 小百合さんに罪はありません。 (笑い)
つまり、たったこれだけのことで、私が「甲斐姫」と関係があると言うのですか?
いや。。。 たったこれだけじゃないでしょう! 小百合さんは、館林で生まれ育った、それなのに、どういうわけか行田にやって来ると必ず決まって“縁切橋” と “涙橋”のすぐ近くの「かねつき堂」までやって来て“ゼリーフライ”を買って食べる。 それも必ずですよ。 だから、これまでにも僕は、その事で記事を書いた。 その結果、「ゼリーフライ 軽井沢タリアセン夫人」と入れて検索すると、4,730件もヒットする。
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■『現時点での検索結果』
でも、こうして検索結果を持ち出してきても、私と「甲斐姫」が関係あることにはならないでしょう!
あのねぇ~、どうして僕が検索結果を持ち出してくるかというと、小百合さんと“館林”、それに、小百合さんと“ゼリーフライ”の関係が、とって付けたような冗談でなしに、これまでにも、たびたび僕は記事で書いているのですよ。 これだけでも、不思議だとは思いませんか?
別に不思議だとは思いませんわァ。。。 それに、私が「甲斐姫」と関係があると言うことは、今回、初めてデンマンさんが取り上げたのですわ。
そうです。。。 でも、これだけ検索結果を見せ付けられると、これを読んでいるネット市民の皆様も うすうす気づくのではないかと思うのですよ。
何を うすうす気づくのですかァ~?
だから、館林城主の長尾景朴の血が小百合さんにも流れていると。。。 つまり、小百合さんの祖先は 長尾一族と深い関係があったのですよ。
まさかァ~。。。?
つまりねぇ~。。。 歴史的事実として、館林城主の長尾景朴は成田氏長に破談をせまったのです。 言葉を変えて言えば、「甲斐姫」から生みの母親を取り上げてしまったのですよ。
だから。。。?
だから、館林城主の長尾景朴は、あとで当時2歳の「甲斐姫」の存在を知って不憫(ふびん)に思ったのです。 それで、いづれ機会があったら 生みの母親に謝りたいという気持ちが 年をとるたびに募(つの)ってきた。 その気持ちが世代を重ねるうちに小百合さんにも伝わったのです。
それで、私が無意識のうちに“縁切橋” と “涙橋”のすぐ近くの「かねつき堂」までやって来て“ゼリーフライ”を買って食べて、「甲斐姫」の生みの母親の供養(くよう)をしているとデンマンさんは言うのですか?
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その通りですよ。 館林城主の長尾景朴はマジで当時2歳の「甲斐姫」の存在を知って不憫(ふびん)に思ったのです。 だから、心から生みの母親に謝りたかった。 でも、それは実現しなかったので、その気持ちが世代を重ねるうちに子孫に伝わったのです。
。。。で、私が その気持ちを受け継いだと。。。?
その通りですよ。
でも。。。、でも。。。、それは、何が何でも、デンマンさんの考えすぎですわ。。。 これを読んでいるネット市民の民様は絶対に信じないと思いますわァ~。。。
でもねぇ~、なかには信じる人も居ると思いますよ。。。 だってぇ~、僕は真剣な気持ちで、検索結果まで持ち出して、こうして長々と説明してきたのだから。。。
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【卑弥子の独り言】
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ですってぇ~。。。
あなたは上のデンマンさんのお話を信じることができますかァ?
やっぱり、眉唾物(まゆつばもの)でござ~ますわよねぇ~。。。
ところで、どうして小百合さんが「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?
ご存知でござ~♪~ますか?
実は簡単な事なのですわよう。
小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわ。
そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。
現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。
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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。
そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。
軽井沢・雲場池の紅葉
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軽井沢のイルミネーション
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秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩
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とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。
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