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甲斐姫と軽井沢タリアセン夫人(PART 1 OF 3)

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甲斐姫と軽井沢タリアセン夫人(PART 1 OF 3)

 


(kaihime06.jpg)


(salon22.jpg)




(sayuri55.gif)

デンマンさん。。。 先日は「亀姫」を取り上げましたわねぇ~。。。


(kame90.jpg)

『かねつき堂と亀姫』


(kato3.gif)

あれっ。。。 小百合さんは覚えていましたか!?



だってぇ、上の記事をデンマンさんが投稿したのは 11月25日のことですわ。。。 まだ1ヶ月と経ってないのですもの。。。で、今日はどうして「甲斐姫」なのですか?

小百合さんは行田にやって来ると、いつも“かねつき堂”でゼリーフライを買って食べますよね。


(kane001.jpg)


(kane002.jpg)



何も、“かねつき堂”の写真まで貼り出すことはないではありませんか。。。 デンマンさんは、お小遣いをもらって“かねつき堂”の宣伝をしているのですか?



僕は、そのような“こすい”ことはしてません。

じゃあ、どうして“かねつき堂”を持ち出してきたのですか?

そもそも、先日「亀姫」を取り上げたのは、上の“かねつき堂”にあるはずの“鐘”と「亀姫」が関係あるからですよ。

じゃあ、「甲斐姫」と“かねつき堂”も関係あるのですか?

関係があるのですよ。

でも、そのような事は一度も聞いたことがありませんわ。

そうでしょうね。。。 まだ誰も「甲斐姫」と“かねつき堂”が関係あるなんてぇ、言った人は居ないと思いますよ。

つまり、デンマンさんが世界で初めて「甲斐姫」と“かねつき堂”の関係を明らかにするのですか?

うへへへへへ。。。 でも、それほど だいそれたことではありませんよう。 この事が世界に知られても、ノーベル文学賞がもらえるほどの大発見ではありませんからね。。。 (笑い)

つまり、「甲斐姫」と“かねつき堂”は、どちらも行田市と関係がある。。。 その程度の関係ですか?

いや。。。 そう言ってしまっては身も蓋もありません。。。 あのねぇ~、小百合さんは行田市で生まれ育ってないので、当然のことだけれど、行田市の地理に明るくない。

そうですわ。。。 私が知っているのは大長寺近辺と水城公園、さきたま古墳公園、それに県道ルート66号と国道17号バイパスの近辺だけですから。。。 “かねつき堂”のあたりは、歩いたこともないくらいですわ。 松本清張さんではありませんが、ほんの“点と線”しか行田のことは知りません。

うん、うん、うん。。。 それだけ知っていれば、外部の人間とすれば充分ですよ。

それで、「甲斐姫」と“かねつき堂”に、どのような関係あるのですか?

上の記事の中にも貼り出したのだけれど、“かねつき堂”が行田市のどの辺にあるのか? 初めて、このブログを読む人もいるだろうから、次の地図を見てください。


(gyodamap88.png)

『拡大する』



見れば解るように、“かねつき堂”は江戸時代の忍藩の中心付近に位置しているのですよ。 つまり、忍城のすぐそばなのです。



要するに、甲斐姫が現在、生きていれば、“かねつき堂”にやって来てゼリーフライを毎日でも食べると、デンマンさんは言いたいのですか?

その通りですよ。。。 でもねぇ、それが「甲斐姫」と“かねつき堂”との切っても切れない関係だ!。。。などと言うつもりはありません。

じゃあ、どのような関係があるのですか?

それを説明する前に“かねつき堂”の近所を拡大した地図を見てください。


(gyodamap77.png)

『拡大する』



“かねつき堂”のすぐ近くに“縁切橋” と “涙橋”という知る人ぞ知る 涙をそそる有名な橋があったのですよ。


(namida02.jpg)


(enkiri02.jpg)



その二つの橋が「甲斐姫」と関係あるのですか?



そうなのですよ。 次のエピソードを読んでみてください。


“縁切橋” と “涙橋”

栗原医院の所にあった二重櫓の西に門と橋があり、今の城西1丁目1番地の間の道を西に出ると門と橋があった。
その橋を“縁切橋”といった。
今の1番地 2番地、4番地の地内が上荒井曲輪で囲まれていた。

その西側、今の矢場1丁目5番地は“片矢場”といい、今の西側小川に沿ってやはり曲輪に囲まれていた。

矢場2丁目4番、5番の南に川があって、ここにも門と橋があって“涙橋”といった。
今は川がなくなってしまったので、古老以外は知らないと思うが、大正初期頃までは橋の名が悪いので、若い男女は二人でこの橋二つを渡るものではないとされていた。

橋名の因縁は天正元年(1573年)の四百年も前の事である。
館林城主の長尾但馬守入道景朴は古河公方の旗下となり、足利義輝将軍の御供衆になって娘を近隣の大家忍城成田氏長にやり、北関東に覇をとなえようとした。
しかし意の如くならず、政略結婚の常として氏長に破談をせまった。

そこで氏長は妻女を大裏門から送り出し、この橋で別れを惜しんだ。
即ち“縁切橋”の名となったという。

別れを惜しんだ妻は次の橋で振り返り、涙を流して皿尾門から出て行ったといわれる。
即ち“涙橋”といい後世までの語り草となった。

その時、忍城に残された一粒種の甲斐姫は2歳であった。
それから16年後の天承18年(1590年)石田三成の2万の大軍が忍城を攻め、有名な“忍の水攻め”となった。
芳紀正に18歳の長刀の名手の美少女甲斐姫が、大手門外や大宮口御門に大奮戦して城兵を鼓舞し、忍城を不落の城として守り通した話は『成田記』にくわしい。


(kaihime01.jpg)


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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真と地図はデンマン・ライブラリーより)



182-183ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社



 (すぐ下のページへ続く)

 


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