菊ちゃんと阿部忠秋(PART 2 OF 3)
つまり、江戸時代に阿部忠秋が建てて大長寺に寄進した毘沙門堂に 昭和になってから お参りにやって来る花嫁さんを菊ちゃんが毎回見に行ったということが 菊ちゃんと阿部忠秋のささやかな関係なのですか?
いや。。。 実は、それだけではないのですよ。
あらっ。。。 まだ他にも菊ちゃんと阿部忠秋のつながりがあるのですか?
あるのですよ。 小百合さんは“振袖(ふりそで)火事”ってぇ聞いたことがあるでしょう!?
あの江戸時代に起こった最大の火事ですか? 確か江戸城の天守閣が焼けてしまって、それ以来 江戸城には天守閣が再建されなかったのですよねぇ~。。。
あれっ。。。小百合さんは、結構 歴史に詳しいのですねぇ~。。。
いいえ。。。 デンマンさんからの聞きかじりですわァ。 うふふふふふふ。。。
明暦の大火 (振袖火事)
この明暦の火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。
外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。
死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。
江戸城天守はこれ以後、再建されなかった。
火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものである。
日本ではこれを、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えることもある。
明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われた。
御三家の屋敷が江戸城外へ転出。
それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。
防備上千住大橋のみしかなかった隅田川への架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など、市街地が拡大した。
防災への取り組みも行われた。
火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。
現在でも上野広小路などの地名が残っている。
幕府は耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励したが、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、江戸はその後もしばしば大火に見舞われた。
振袖火事とも呼ばれるゆえんは以下のような伝承があるためである。
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お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(16才)は、本郷の本妙寺に母と墓参に行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。
ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり赤面して下を向く。
梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か食欲もなくし寝込んでしまう。
名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていた服と同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。
だがいたましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。
両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった。
当時こういう棺に掛けられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていた。
この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16才)のものとなる。
ところがこの娘もしばらくの後に病となって亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。
寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(16才)の手に渡る。
ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺に掛けられ本妙寺に運び込まれてきた。
さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。
住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ちあがったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。
たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった。
出典: 「明暦の大火」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この振袖火事が菊ちゃんと阿部忠秋にも関係あるのですか?
それが不思議にも関係あるのですよ。
どのように。。。?
あのねぇ~、確かに“明暦の大火”と呼ばれる大火事は実際にあった。 でもねぇ~、それにまつわる“振袖火事”の話は作り話なのです。
まさかァ~。。。、だってぇ~。。。、だってぇ~。。。、歴史の時間に、先生は“振袖火事”のことを史実として話しましたわァ。
そうなんですよ。 最近まで、“振袖火事”の話は事実だと信じられていた。 実際、去年の秋、僕が行田市に帰省した時にも NHKの木曜時代ドラマで“振袖火事”の事をやってましたよ。
でも、その話は作り話なのですか?
そうです。。。
どうして、その話が本当だと信じられてしまうほどに江戸時代に広まったのですか?
あのねぇ~、火元が本妙寺だと信じられていたのだけれど、本当の火元は、誰あろう 阿部忠秋の屋敷だったのですよ。
あらっ。。。 マジで。。。? でも、どうして本妙寺が火元だということになったのですかァ~?
だから、民衆に、そのように信じ込ませるように幕府の首脳陣が“振袖火事”の伝説を広めたのです。
だけど、どうして、そのような事までして嘘の話を広めたのですか?
あのねぇ~、幕府は火事の火元に対しては、当時、厳罰主義で臨んでいたのです。 それなのに幕府の老中の屋敷が火元とあっては、幕府の権威が失墜してしまうのですよ。
それで、火元を本妙寺ということにしたのですか?
そうですよ。 本妙寺は、たまたま阿部忠秋の屋敷の隣にあった。
でも、本妙寺の住職が それでは気持ちが納まらないでしょう?!
だから、その嘘の話を広めるために、住職を説得したのです。
。。。で、住職さんも幕府の言うことを聞き入れたのですか?
聞き入れたのです。 それが証拠に、火事の後で、阿部家からは供養代として、毎年 本妙寺に相当額の寄付が送られたのです。 それが、実に 1923年の関東大震災まで毎年続いたのですよ!
それってぇ、マジですかァ~?
ちゃんと記録にも残っているのです。
。。。で、阿部忠秋の屋敷に住んでいる誰が火をつけたのですか?
いや。。。 放火したわけではないのです。 たまたまその家に“お菊さん”という女中が住んでいたのです。
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あらっ。。。 この人ですか? なんだか菊ちゃんに似ているじゃありませんか?
そうですよ。。。 そのことについては、この後で話しますよ。
。。。で、この“お菊さん”が火事の原因を作ったのですか?
そうなのです。。。 “お菊さん”はネズミが大嫌いなのですよ。 たまたま阿部忠秋の部屋の行灯(あんどん)に火をともしに行った時にネズミがチョロチョロと“お菊さん”の目の前を横切ったのです。 それでビックリしてロウソクの火を畳の上に落としてしまったのですよ。
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あらっ。。。で、その“お菊さん”をかばう意味もあって、阿部忠秋は火元を本妙寺に肩代わりさせたと言うわけですか?
そうなのですよ。 阿部忠秋という人は、自己保身のために罪を他に押しつけるような卑劣な人物ではない。 それに、人望の厚い人格者であったらしい。 というのは、阿部忠秋は捨て子を拾って養育していたのです。 次のようなエピソードが伝わっていますよ。
阿部忠秋は毎年数十人の捨て子を養育していた。
このことはたちまち江戸中に知れ渡り、阿部忠秋の屋敷前や通勤経路には、捨て子をする人が増えた。
捨て子を見つけるとすぐに抱き上げる忠秋に、家臣が言いました。
「殿、際限がございませぬ」
「捨てたくて子を捨てる親はいないのだから、捨て子がいるということは、われらの政治がいたらなかったということ。 だからこそ、子を育てることで穴埋めをしたい」
「しかし、金が掛かります」
「わしは 遊興を控えて浮かせた金で養育しておる。 そなたらに迷惑をかけてはおらん」
成長した子は、男の子は家臣とし、女の子は嫁ぎ先を見つけてやった。
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もしや、“お菊さん”はこの捨て子のうちの一人だったのですか?
そうなのですよ。。。 この“お菊さん”は、菊ちゃんのように ちょっと知恵が遅れていた。 それで阿部忠秋も 失火の罪で死罪にするには忍びなかったのです。
。。。で、もしかして。。。、もしかして。。。、“お菊さん”の子孫が菊ちゃんなんですかァ~?
実は、そうなんです。。。 もし、“お菊さん”が失火の罪で死罪になっていたら、菊ちゃんはこの世に存在していなかったのですよ。
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