菊ちゃん、知恵伊豆、忠秋(PART 1 OF 3)
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松平信綱
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デンマンさん。。。 今日も菊ちゃんと歴史上の人物の話ですか?
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小百合さんは つまらなそうですねぇ~?
いいえ。。。 別につまらないというわけではありませんわ。。。 ただ、この記事を読んでいるネット市民の皆様がつまらないと思います。
あのねぇ~、つまらないと思ったら、ここまで読んできませんよ。。。 上の写真を見て、なんとなく興味を持った人が小百合さんと僕の話を聞こうとしているのですよ。。。それに、これまでに菊ちゃんの話を読んだ人は、更に面白いエピソードが読めるのではないか? そう思って、ワクワクしながら読み始めたのですよ。
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■『毘沙門堂と菊ちゃん』
■『菊ちゃんと阿部忠秋』
。。。で、今日は“知恵伊豆”と呼ばれた松平信綱が登場するのですわね。
あれっ。。。 小百合さんは松平信綱が“知恵伊豆”と呼ばれているのを知っているのですね。
その程度のことは歴史を勉強したら誰でも知っていますわよ。
そんな事はありませんよ。 この記事のタイトルを見て、つまらないと思って他のサイトへ飛んでしまった人は、知らないはずです。
つまり、ここまで この記事を読んできた人は松平信綱が“知恵伊豆”と呼ばれているのを知っているのですわね。
もちろんですよ。。。 じゃなかったら、とっくに他のサイトへ飛んでます。 (微笑)
菊ちゃんのことをこれまでに記事で読んだ人は“忠秋”が阿部忠秋だということを知っていると思うのですけれど、松平信綱がどうして菊ちゃんと関係あるのか? 不思議に思っているはずですわァ~。。。
あのねぇ~、実は、阿部忠秋は 松平信綱が忍藩から川越藩に移った後で第4代の忍藩主になった人なのですよ。
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忍城は代々国人領主の成田氏の居城であった。
上杉氏と後北条氏の係争地だったため、重要拠点として整備され、低湿地の沼沢を濠とし、その中に浮かんだ島を曲輪として利用した堅城になった。
そして、成田氏は永禄12年(1569年)の越相同盟によって正式に後北条氏に属することになった。
天正18年(1590年)の小田原征伐の際には石田三成率いる豊臣軍の攻撃を受けたが、落城することはなかった(小田原落城後に開城)。
後北条氏滅亡後、関東に入った徳川家康は忍城に四男の松平忠吉を10万石で入れた。
しかし忠吉は11歳という幼年であったため、松平家忠が1万石で入る。
家忠は三成の水攻めのために荒廃した忍城と城下町を修築し、代官の伊奈忠次の助けも受けて領内に検地を実施した。
文禄元年(1592年)に家忠は下総国上代1万石に移され、忠吉は忍に入ったがまだ若年のため、家老の小笠原吉次が実際の政務を代行した。
吉次は兵農分離、家臣団編成、新田開発、利根川の治水工事で手腕を見せた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、忠吉は井伊直政と共に島津義弘軍と戦って負傷しながらも武功を挙げたため、尾張尾張藩52万石に加増移封された。
その後しばらく、忍藩は廃されて天領となり、代官の忠次や大河内久綱らが治めた。
寛永10年(1633年)、『知恵伊豆』で有名な松平信綱(久綱の子)が3万石で入る。
信綱は老中に昇進して島原の乱鎮圧では総大将として幕府軍を率いて乱を鎮圧し、寛永16年(1639年)にはその武功により武蔵川越藩6万石に加増移封された。
代わって信綱と同じく徳川家光のもとで小姓から老中にまで栄進した阿部忠秋が5万石で入る。
信綱・忠秋が相次いで老中に就任した結果、忍藩は「老中の藩」として政治的・軍事的にも幕府の重要拠点と見なされるようになったが、これが逆に藩主家の経費増加にもつながり、次第に忍藩の年貢は重くなっていったと言われている。
忠秋は正保4年(1647年)に1万石、寛文3年(1663年)に2万石を加増され、合計8万石を領する大名となった。
出典: 「忍藩」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
こういう経緯(いきさつ)で忠秋さんが第4代の忍藩主になったわけです。
。。。で、菊ちゃんと“知恵伊豆”との関係は。。。?
その話をするには、まず信綱さんが忍藩から川越藩へ移るきっかけとなった“島原の乱”に注目する必要があるのですよ。
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島原の乱と松平信綱
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寛永14年(1637年)10月末に肥前国島原や肥後国天草郡などでキリシタン一揆が発生した(島原の乱)。
信綱ら首脳陣は当初、板倉重昌と石谷貞清を派遣し、さらに日根野吉明や鍋島勝茂、寺沢堅高、松倉勝家ら九州の諸大名に鎮圧と加勢を命じた。
しかし一揆勢は原城に立て籠もって抗戦し、戦闘は長期化した。
当初、幕府軍の総大将は板倉重昌であり、信綱は戸田氏鉄と共に一揆鎮圧後の仕置・戦後処理のために派遣されていた。
だが寛永15年(1638年)1月1日に重昌が戦死。
石谷貞清も重傷を負ったため、代わって信綱が幕府軍の総大将に就任することになった。
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1月11日には篭城する一揆軍に対してオランダ船のデ・ライブ号に要請して援護射撃をさせた。
1月28日に副将格の戸田氏鉄が負傷するなど一揆の抵抗も激しく、信綱は兵糧攻めに持ち込んだ。
この結果、2月下旬には一揆の兵糧はほぼ尽きてしまい、2月28日までに原城を陥落させた。
信綱は一揆の総大将である天草四郎の首実検を行ない曝し首とした。
このとき信綱の家臣6名も戦死し、手負い103名であった。
3月1日には原城を破却して捕らえた者は斬首して曝した。
また松倉勝家・寺沢堅高両名も一揆を招いた責任ありとして処罰を言い渡した。
幕藩体制の完成
戦後、一揆鎮圧の勲功を賞され寛永16年(1639年)1月5日には3万石加増の6万石で(忍藩から)川越藩に移封された。
信綱は城下町川越の整備、江戸とを結ぶ新河岸川や川越街道の改修整備、玉川上水や野火止用水の開削、農政の振興などにより藩政の基礎を固めた。
島原の乱後、信綱はキリシタン取締りの強化や武家諸法度の改正、ポルトガル人の追放を行なった。
またオランダ人を長崎の出島に隔離して鎖国制を完成させた。
寛永15年(1638年)11月に土井利勝らが大老になると、信綱は老中首座になって幕政を統括した。
寛永16年(1639年)8月に江戸城本丸が焼失すると、その再建の惣奉行を務めた。
慶安元年(1648年)4月に養父の正綱が死去した際には銀100枚を賜ったが、その遺領は実子の松平正信や松平正朝に継がせて自らは拒絶した。
この頃は家光実父の台徳院(秀忠)、生母の崇源院の法事奉行を務めている。
出典: 「松平信綱」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あのねぇ~、上のYouTubeのクリップを見れば解るけれど、“島原の乱”は決して九州の片隅で起こった ちっぽけな乱ではないのですよ。 まかり間違えば、オランダ、スペインまで巻き込んだ大戦争になるかもしれなかった。 幕府軍が負ければ、日本はキリスト教国になっていたかもしれないのですよ。
そうならなかったのは松平信綱さんの功績なのですか?
僕は、そう思いますね。。。 だからこそ、歴史上“知恵伊豆”として“あの男の頭の良さは人間を越えている”と言われるように、日本を救ったとして有名になったのですよ。
。。。で、菊ちゃんと知恵伊豆さんの関係は。。。?
あのねぇ~、その話をする前に、どうしても信綱さんと忠秋さんの性格の違いを話さないといけないのです。
デンマンさんの話は いつも回りくどくて、それで記事が長くなってしまうのですわ。 細木数子さんのように ズバリ!ズバリ!と話すことはできないのですか?
あのねぇ~、細木数子のように ズバリ!ズバリ!と話を進めると誤解を与えてしまうのですよ。。。 だから、苦情がテレビ局に殺到して 細木さんはテレビ局のお偉方に睨まれ、番組から降ろされてしまったのです。 そう言うわけで、僕は誤解を与えないように、誰もが良く理解できるように話さなければならないと思っているのですよ。
解りましたわ。。。 では、なるべく手短にお願いします。
信綱さんは“知恵伊豆”と呼ばれるように、確かに頭の回転が速くて、“島原の乱”では日本を危機から救った。 でもねぇ~、政治と言うのは頭だけでやっては失敗することもある。 そういう意味で忠秋さんが老中となって江戸幕府の閣僚に加わったことは日本のために良いことでした。
。。。で、忠秋さんは、信綱さんと比べると、どういう人だったのですか?
信綱さんは、頭が鋭く、口も達者で、動きもきびきびして、処世術もかなりうまかった。 それに対して、忠秋さんは“石仏の忠秋さま”と言われるくらい、ほとんど口も利かない、動きもゆっくりしていた。 それに処世術にかけては全くだめだったらしい。 二人の性格を表すのにぴったりな こんなエピソードがあるのですよ。
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