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丸墓山は誰の墓? (PART 2 OF 3)

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丸墓山は誰の墓? (PART 2 OF 3)




『ウィキペディア』にも「『新編武蔵風土記稿』に麿墓山(まろはかやま)として記載がある」と書いてあるでしょう!



つまり、蘇我石川麻呂の墓だと言うのですか?

そうですよ。。。 その話の方が面白いと思いませんか?

私にしてみれば丸墓山に葬られている人が笠原直使主(あたいおみ)であろうと、蘇我石川麻呂であろうと、それほど大きな問題とは思えませんけれど。。。

誰の墓か?と言うのは歴史的な事実としてやっぱり重要なことですよ。

だったら、むしろ武蔵国造(くにのみやつこ)という地方長官の地位にあった笠原直使主(あたいおみ)が葬られているとした方が可能性があるのではありませんか?

確かに、小百合さんの言う事には一理あります。 当時、“さきたま”を勢力圏に治めていた人ですからね。 でもねぇ~、真実はどこかに隠されているものですよ。

その真実が『新編武蔵風土記稿』に麿墓山(まろはかやま)として記載があるということですか?

そうです。。。 当時の朝廷をはばかって“麿墓山”という呼び方を変えて“丸墓山”と呼んだのですよ。

“当時の朝廷をはばかって”とは、どういう意味ですか?

あのねぇ~、当時の朝廷の権力を握っていたのは、後に“天智天皇”と呼ばれるようになる中大兄皇子だった。 蘇我石川麻呂は、この中大兄皇子の計略にはめられて自殺に追い込まれたのですよ。



 女帝誕生

 

讚良(さらら)皇女が

 

皇位を継ぐ。

 

殺人鬼の父親の陰謀により祖父が自決。
祖母も祖父と共に自殺。
母親は二人の死が夫の陰謀だと知って
半狂乱になる。
その夫の子供を宿していたが、
建皇子(たけるのみこ)を出産すると
幼少の讚良皇女に我が子を託して
二人のあとを追うように自殺。

建皇子は家庭の暗い影の下で
唖者として生まれ
体も不自由だった。
8才の短い命を閉じた。

讚良皇女は女帝になったが、
その生い立ちは不幸の連続だった。

(mhead2.gif)


 




僕が当時生きていて、しかも日本新聞の編集長だったら、このような新聞を出していたかもしれません。

これは歴史家が誰も言っていないことですが、
僕は持統天皇が境界性人格障害者だと信じることができます。
もちろん、当時、そのような病名はありません。

讚良皇女は4才の時に可愛がってくれたおじいさんとおばあさんを亡くしたのです。
しかも、お母さんは半狂乱になって精神に異常を来たし、二人のあとを追うように自殺したのです。
このような悲惨な事件を満5才になるかならないかのうちに経験したのです。
この悲劇が幼少の頃の讚良皇女の心に与えたトラウマは、
境界性人格障害となって後の彼女の性格形成に大きな影響を与えたはずです。

成長するにつれて父親(後の天智天皇)が行った非情な所業のことも知るようになります。
この父親の生涯は、敵対する者や皇位継承のライバルを謀略でもって抹殺する歴史でした。
その手にかかって亡くなった相手には、次のような人たちがいました。

蘇我蝦夷
蘇我入鹿
古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)
有間皇子
蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)
。。。

満12才の時に、姉の大田皇女(満13才)と共に大海人皇子に嫁ぎます。
もちろん、政略結婚です。
中大兄皇子(後の天智天皇)にとって一番のライバルは大海人皇子でした。
何とかして大海人皇子を自分の協力者にしたい。
言ってみれば、二人の娘を人質として大海人皇子に渡したようなものです。
それほどまでにして中大兄皇子は大海人皇子を懐柔しようとした。

しかし、その甲斐もなくやがて天智天皇は大海人皇子によって暗殺されます。
目には目を歯には歯を!
この当時の必然でした。



『愛と怨念』より
(2006年7月5日)




だから、丸墓山の南にある西行寺の縁起に、聖徳太子のなくなった後の大和朝の内乱の末の大化改新の折、649年、蘇我石川麻呂の一族がこの地に逃げてきたということは充分に信憑性があるのですよ。



。。。で、聖徳太子と蘇我石川麻呂は何か関係があるのですか?

もちろんですよ。 聖徳太子も蘇我石川麻呂も次の系図が示すように蘇我一族ですからねぇ~。。。


(sogatree.png)

『拡大する』



なんと、蘇我石川麻呂を自殺に追い込んだ天智天皇の妻の一人は、石川麻呂の娘なのですよ。



でも、蘇我石川麻呂の一族が“さきたま”に逃げてきたというのは、単なる伝説に過ぎないのではありませんか?

それが、単なる伝説ではないのですよ。 事実、行田市近辺には石川麻呂の一族の子孫が住んでいるのです。

その証拠でもあるのですか?

ちょっと次の小文を読んでください。


聖徳太子


(taishia1b.jpg)


(taishia2.jpg)

国宝の聖徳太子像が荒木の天洲寺にある事は大方の人が知っている。
何故、そんないい御像が荒木にあるのですかと尋ねられる。
今回はその縁起を、2月22日の大祭にちなんで書いておこうと思う。

本像は141センチの桧寄木造、漆塗彩色、玉眼水晶の立派なもので、法橋(ほっきょう、というその道の位、今でいえば帝室芸術院会員の様な位)の慶禅という人が、寛元5年1月13日(1247年)に造ったと、胎内銘として墨書してある。

しかも、鎌倉幕府の評定衆の大江広元の四男、毛利四郎季光が、父母と兄二人と三代執権、北条泰時の冥福を祈って造らせたと墨書してある。
又別の所に「御所(三代将軍源実朝)ぼだいのために」と書いてある。
実朝は聖徳太子信仰が厚かったという。
そんな由緒正しい御像が、どうして荒木にあるのであろうか。

荒木出身の武蔵武士に安藤総守隆光という文武に秀でた武将が居り、康安元年(1361年)34歳の折、親鸞上人の弟子となり源海上人という立派な方となり、生国荒木に満福寺という寺を作ったという。
その折、御像が荒木に運ばれたのではあるまいか。

忍城築城した成田氏の分限帳に、その譜代侍に“永八十貫、荒木越前”という名がある。
荒木を領有した荒木長善で、今も長善沼という名を残している。

約370年前、平田山清善寺の五世、天洲全堯和尚を開山とし、荒木長善が開基となって、聖徳山天洲寺を創建したという。
多分、源海上人の満福寺にあったこの聖徳太子像は、天洲寺に祀られる様になったのであろう。


(arakimap.png)

『拡大する』

聖徳太子の命日、2月22日が大祭で、東京より沢山な太子講の方がお参りに来て御開帳される。
関東では名作の一つといわれる鎌倉時代の木像であるから、市民の方、ぜひ御参拝して頂きたいと思う。
太子は日本建築工芸の創始者としてあがめられている。
日本一の太子像が行田にあるのだから、その方面の方々の御参拝をおすすめしたいと思う。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真と地図はデンマン・ライブラリーより)



233-235ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社




なぜ、国宝の聖徳太子像が荒木の天洲寺にあるのか? その答えは、蘇我石川麻呂の一族が“さきたま”に逃げてきて、その一族の子孫が、行田市近辺に住んでいるからですよ。



つまり、荒木長善は、石川麻呂の一族の子孫なのですか?

そうですよ。。。 そうであるならば、まぜ国宝の聖徳太子像が荒木の天洲寺にあるのか? 丸墓山が石川麻呂を葬った墓である必要があるのか? すべてが うまく説明がつくのですよ。



(laugh16.gif)

 (すぐ下のページへ続く)

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