イタリア夫人(PART 1 OF 3)
[491] Re:小百合さんのために作った
『夢とロマンの軽井沢』のサイトに、
たくさん記事を書いて、
もっと読み応えのあるサイトにしますからね。
\(^_^)/キャハハハ。。。
Name: さゆり E-MAIL
Date: 2009/01/20 22:54
(バンクーバー時間: 1月20日 午前5時54分)
デンマンさん!
そこに 座っていたら ダメです。
もっと外を歩いて下さい。
どこかの なんとか老人に
なってしまいますよ。
『軽井沢タリアセン夫人』より
(2011年8月12日)
デンマンさん、今日はイタリア夫人のお話ですか?
そうです。
でも、イタリア夫人って一体誰のことですの?
小百合さんは判っているでしょう?
私がすでに知っている人ですか?
もちろんですよ。 小百合さんの用事で TD 銀行に歩いて行っかなかったら、おそらく「イタリア夫人」について書くこともなかったでしょう。
あらっ。。。マジで。。。?
TD 銀行で用事を済ませてから僕はバンクーバー図書館に行ったのですよ。
そこで日本語の本を10冊借りてきたのです。
つまり須賀敦子さんがイタリア夫人なのですか?
いや。。。須賀敦子さんだけではないのですよ。
でも、どうして須賀敦子さんの本を読もうと思ったのですか?
日本語図書の本棚で、まず目に付いたのが青枠で囲んだ「須賀敦子のミラノ」だったのですよう。 小百合さんの見えない手が僕の肩をぐいと押して、その本の前に立たせたとしか言いようがないのです。
実は、須賀さんの本と言えば赤枠で囲んだ「トリエステの坂道」しか僕は知らなかった。 「須賀敦子のミラノ」という本は読んだことが無い。 須賀さんが書いたのだと思ったら大竹昭子さんと言う人が書いている。
それで興味を持って借りる事にしたのですか?
そうです。 写真がたくさん貼ってある。 久しぶりに「トリエステの坂道」も読もうと思って、それも借りた。 そうしたら、須賀さんが共著で書いた「ヴェネツィア案内」という本も目に付いたので、それも借りてきたのです。
「トリエステの坂道」は何度も読んだのですか?
初めて僕がこの本を読んだのは2003年でした。 それから3度か4度読んだでしょうか。。。2008年1月に短い書評を書きました。
■『「トリエステの坂道」 読後感』
(2008年1月11日)
この写真の中の人物は須賀さんとイタリア人の夫・ぺッピ−ノさんですよう。 1967(昭和42)年に御主人は41歳で亡くなりました。
まだ若いのに。。。須賀さんは力を落としたことでしょうね?
そうですよう。 その時、須賀さんは、まだ38歳でした。 僕が日本で暮らしていた時には、もちろん、須賀さんを知りませんでした。 須賀さんが日本語で書いた自分の本を出版したのは1990(平成2)年です。 『ミラノ 霧の風景』と言う本でした。 その年、須賀さんは61歳でした。
デンマンさんは、当時、須賀さんが生きていると信じていたのですか?
そうなのですよう。 「須賀敦子のミラノ」の本に略年譜があって、それを読んで須賀さんが1998年3月20日に心不全で亡くなっていた事を知ったのです。 69歳でした。 つまり、2003年に僕が初めて須賀さんの『トリエステの坂道』を読んだ時には、須賀さんはすでにあの世の人だったのですよう。 生きていると思い込んでいた人が、すでに長い間あの世の人だった、と言う事実を知るのは奇妙なものです。 小百合さんの用事が無かったら、今でも僕は須賀さんが生きていると思い込んでいたでしょう。
それで、須賀さんの冥福を祈るようにして『トリエステの坂道』を再度読んでみたのですか?
そうです。 しみじみと読み直しましたよ。 それまで、それ程印象が強くなかった章が、衝撃的な意味を持って僕の目の前に現れたのです。
それが、このページの冒頭に引用した「ふるえる手」というエッセーなのですか?
そうです。 あっ。。。これだ! 僕は、そう思いましたね。 須賀さんは次のように書いている。
ぽっと明るみのもどった歩道に下りたときはじめて、私は、たったいま、深いところでたましいを揺りうごかすような作品に出会ってきたという、まれな感動にひたっている自分に気づいた。
しばらく忘れていた、ほんものに接したときの、あの確かな感触だった。
著者の須賀さんにとっては、メチャすっご〜い感動だったのですよ。
でも、私にはそれ程の感動が伝わってきませんわ。
あのねぇ〜、須賀さんが味わった感動を理解するには、実は、次の部分も読む必要があるのですよ。 同じエッセーの後半部です。
おなじ年の十一月、私は、もういちど、ローマに行く機会にめぐまれた。
一年に二度、ローマを見られるのはなんとも幸運なことだった。
とはいってもなにもかもうまく行ったわけではない。
もういちど、私は雨になやまされた。
(中略)
雨のなかを、私は、もういちど、カラヴァッジョを見に行くことにした。
あの絵が、萎えた気持ちをなぐさめてくれるかもしれない。
四月の雨の日に訪れて以来、とうとう、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会を再訪する機会はなかった。
あの日、どうしてあの絵をもっとゆっくり見ておかなかったのかと、心残りでもあった。
あの翌日の午後も、そのつぎの日にも、扉はかたく閉まっていた。
まだ早い時間のせいか教会のなかには旅行者のすがたもなく、がらんとした薄闇だけが沈黙につつまれていた。
用意したコインをつぎつぎと箱に入れて、こんどこそおもいのままに時間がすごせるはずだった。
右手の戸口から入ってきたキリストが、しなやかに手をのばして収税人のマッテオを指さしている。
イエスの顔はほとんど闇のなかにあって、それが彼とわかるのは、糸のように細い光の輪が頭上に描かれているからにすぎない。
収税人マッテオは、私が最初、勘ちがいしたように、光を顔に受けた少年ではなくて、その横に、え、あなたは私に話しかけているのですか、というふうに、自分の胸を指さしている中年の男だ。
マッテオは、「人に好かれなかった」と聖書にあるのだが、それにしては、かなり「ちゃんとした」平凡な人物に描かれていた。
レンブラントやラトゥールに先立って、光ではなく、影で絵を描くことを考え付いたとされるカラヴァッジョの絵を見ていて、私は、キリストの対極である左端に描かれた、すべての光から拒まれたような、ひとりの人物に気づいた。
男は背をまるめ、顔をかくすようにして、上半身をテーブルに投げ出していた。
どういうわけか、そのテーブルにのせた、醜く変形した男の両手だけが克明に描かれ、その手のまえには、まるで銀三十枚でキリストを売ったユダを彷彿とさせるような銀貨が何枚かころがっていて、彼の周囲は、闇に閉ざされている。
カラヴァッジョだ。
とっさに私は思った。
ごく自然に想像されるはずのユダは、あたまになかった。
画家が自分を描いているのだ、そう私は思った。
伝承によると、この画家は一種の性格破綻者というのか、ときにひどく乱暴な行為に出た人であったらしく、作品の高い芸術性はみなに認めながらも、仲間にうとまれ、そのためにしばしば仕事をもらえないで、ついには、人を傷つけたのだったか、殺してしまったのか、まるで即興詩人やスタンダールの物語の登場人物さながら、北イタリアからローマに追放されたのだという。
そのあとも、さらにナポリに、はてはマルタ島からシチリアへと逃げたことが、方々に残された作品から推理されている。
でも、異様に変形した手がすべてのような男を、カラヴァッジョが安易に性格的な自画像としてえがいたはずがないようにも、私には思えた。
もしかしたら、顔に光を集めたような少年も、おなじふうに自画像なのではないか。
二人の人物の間に横たわる奈落の深さを知っているのは、画家自身だけだ。
左端にえがかれた人物は闇にとざされていながら、ふしぎなことに、変形した、醜悪なふたつの手だけが、光のなかに置かれている。
変形はしていても、醜くても、絵をかく手だけが画家に光をもたらすものであることを、カラヴァッジョは痛いほど知っていたにちがいない。
あいかわらず、二百リラ分の照明が切れるたびに、あわただしくつぎのコインを入れなければならない。
ちょうど照明が継目にかかったとき、ぴたぴたとにぎやかな小さい足音がして、小学生の一群が若い男の教師に引率されてはいってきた。
まだ画学生のように見える若い教師が絵の説明をするのを、子供たちは神妙に聴いている。
そのうちに、私は妙なことに気づいた。
照明が消えると、教師は、そっぽを向いたままで、私がコインを入れるのを待っているのだ。
そして照明がもどると、また子供たちに説明をはじめる。
なにやら鼻白んだ気持ちで、私はその場を離れることにした。
すると、もうひとつ、奇妙なことが起こった。
私の近くにいた何人かの子供が、おばさん、ありがとう、と小声でいったのだ。
知らんぷりをしつづける教師と、ていねいにお礼をいう子供たち。
そのとき、とつぜん、直線のヴィア・ジュリアと曲がりくねった中世の道が、それぞれの光につつまれて、記憶のなかでゆらめいた。
どちらもが、人間には必要だし、私たちは、たぶん、いつも両方を求めている。
白い光をまともに受けた少年と、みにくい手の男との両方を見捨てられないように。
教会の外は、あいかわらず雨だった。
雨のなかを歩きながら、私はもうすこし、絵のなかの男について考えてみたかった。
犯した罪の意識と仕事に侵蝕され、変形したあの手は、やはりカラヴァッジョ自身の手にちがいない。
なんともあてずっぽうな推測だったが、私は確実になぐさめられていた。
醜い自分の手を、ミケランジェロの天地創造の手を意識において描いたといわれるキリストの美しい手の対極に置いて描きおおせたとき、彼は、ついに、自己の芸術の極点に立つことができたのではなかったか。
ふと、寒さにこごえたようなカラヴァッジョの手のむこうに、四月、それが最後になった訪問のときにコーヒーを注いでくれたナタリア・ギンズブルグの、疲れたよわよわしい手を見たように思った。
鍋つかみのかわりにした黒いセーターの袖のなかで、老いた彼女の手はどうしようもなくふるえていて、こぼれたコーヒーが、敷き皿にゆっくりとあふれていった。
(pp.215-219)
『トリエステの坂道』 著者・須賀敦子 みすず書房
1996年5月20日 第4刷発行
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