イタリア夫人(PART 2 OF 3)
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じっくりと読んでみましたけれど、お恥ずかしい事に、私には須賀さんが味わったと言う「深いところでたましいを揺りうごかすような作品に出会ってきたという、まれな感動」が感じ取れませんわ。
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うん?。。。感じ取れない?
そうです。。。感じ取れませんわ。
う〜ん。。。よくある事ですよう。 悲観しないでくださいよう。 上の須賀さんのエッセーを読んだほとんどの人が漠然とした感動を受けるだけで、須賀さんが受けた感動を100%実感する事は不可能です。
どうして?
須賀さんと同じ体験を持つことができないからですよう。 また、仮に須賀さんと同じような教養と経験を持っているとしても100%の感動を味わう事は不可能です。
なぜ?
司馬遼太郎さんがかつて次のように言ってました。
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“作品は作者だけのものと
違うんやでぇ〜。。。
作者が50%で読者が50%。。。
そうして出来上がるモンが
作品なんやでぇ〜”
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つまり、名作と言われるものは常に名作とは限らない。 読む人が教養もなく人生経験も乏しかったら、どんな名作も“猫に小判”ですよう。
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要するに、私には須賀敦子さんの感動を共感するだけの美術的な教養が欠乏しているとデンマンさんはおっしゃるのですか?
いや、小百合さんには美術的な教養があると思いますよう。
それなのに、どうして私には須賀さんの感動が感じ取れないのですか?
あのねぇ〜、上のエッセーを理解しようとすれば、どうしてもナタリア・ギンズブルグさんと須賀さんの心温まる人間関係を知らなければならないのですよう。 でも、長くなるから僕はその部分を削除してしまったのです。(中略)と書いてあるのがその部分です。 実は極めて重要な部分です。
それなのに、どうして削除してしまったのですか?
カラヴァッジョの絵とは直接関係無いからです。 でも、エッセーを理解するにはナタリア・ギンズブルグさんを語らない訳にはゆかないのですよう。
どうして。。。?
エッセーのタイトル「ふるえる手」というのは、ナタリア・ギンズブルグさんのふるえる手のことです。 一口で言ってしまえば、ナタリア・ギンズブルグさんという人は、あの有名な『アンネの日記』の著者(アンネ・フランク)が生きていれば、こうなるだろうな?というような人です。
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須賀さんが、もしナタリア・ギンズブルグさんの作品を読んでいなければ、本を書くことはなかっただろう、と言うほど須賀さんが強い影響を受けた人です。
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そのナタリアさんのふるえる手がそれ程重要なのですか?
重要なのですよう。 ナタリアさんと須賀さんの心温まる人間関係がその「ふるえる手」に象徴されているのです。
どう言うこと。。。?
あのねぇ〜、須賀さんは、上のエッセーの中で「醜くゆがんだ心」と対比して「良心」を謳(うた)いあげたかったのだと僕は思うのですよう。
どちらもが、人間には必要だし、
私たちは、たぶん、いつも両方を求めている。
白い光をまともに受けた少年と、
みにくい手の男との両方を見捨てられないように。
。。。
知らんぷりをしつづける教師と、
ていねいにお礼をいう子供たち。
「醜くゆがんだ心」とは、みにくい手の男であり、知らんぷりをしつづける教師です。「良心」とは、白い光をまともに受けた少年と、ていねいにお礼をいう子供たちで象徴されている。
それで。。。「ふるえる手」とは。。。?
ナタリア・ギンズブルグさんは須賀さんにコーヒーを入れてあげるとき、本当は安静にしていなければならないような状態だった。 でも、心から須賀さんをおもてなししたかった。 ナタリアさんが亡くなったことを知り、須賀さんはハッと思い当たった。
もう死ぬかもしれないほど体が弱っていたのに、ナタリアさんは心から須賀さんをおもてなしした。 その事を須賀さんは知ったのですか?
そうです。 その事が須賀さんに上のエッセーを書かせたのですよう。 僕には、そう思えるのです。
分かりましたわ。 「ふるえる手」とは、ナタリアさんの心のぬくもりであり、ナタリアさんの「良心」だったのですわねぇ。。。それで。。。、それで、デンマンさんも、その事に感動したのですか?
ん。。。? その事。。。? いや。。。僕が感動したのは違うところですよう。
違うところってぇ。。。いったい、どこですか?
実は、僕にも須賀さんの感動が理解できました。 それは次の部分です。
私は、たったいま、深いところでたましいを揺りうごかすような作品に出会ってきたという、まれな感動にひたっている自分に気づいた。
しばらく忘れていた、ほんものに接したときの、あの確かな感触だった。
でも、この感動を僕の言葉に置き換えると次のようになるのですよう。
僕は、たったいま、深いところで
たましいを揺りうごかすような女性に
出会ってきたという、
まれな感動にひたっている
自分に気づいた。
しばらく忘れていた、
自分が探し求めていた
女性に接したときの、
あの確かな感触だった。
つまり。。。つまり。。。この女性は。。。?
そうですよう。 うしししし。。。 小百合さんなのですよ。 軽井沢タリアセン夫人なのですよう。。。
つまり、この事が言いたいために、わざわざ「イタリア夫人」を持ち出したのですか?
いや、違いますよ。 僕はたまたま次の記事を読んだのですよ。
叩かれる塩野七生
塩野七生が文学の方面からも歴史学の方面からも叩かれる存在らしい、ということは薄々知らなくはなかったが、実態はかなり酷かったのだなと思う。塩野自身はずっとイタリアにいたからわれ関せず、という風情だったようだが、日本にいたら相当きつかっただろうと思う。いくら叩かれても全然めげないから叩く側はよけい憎悪を募らせていたんだろうけど。なんかこういうところは日本人の本当につまらない情けない部分だなと思う。
塩野によると、デビュー当時は哲学なら田中美知太郎、歴史学なら林健太郎、会田雄次といった大先生方に認められていて彼らがいる間は大丈夫だったのだが、80年代から90年代にかけて、その下の世代が学会に主流になったら大変だったのだという。『マキャベッリ全集』を出すので月報を書いてほしいと依頼が来て、OKを出したら訳者の学者たちが塩野が書くなら我々は書かないと言い出して、結局塩野が降りたのだという。
またNHKでウフィッツィを取り上げるときに案内役をしてくれと頼まれてこれも引き受けたら、ルネサンス関係の学者たちが塩野が案内役なら自分たちは以後協力しないと言い出したのだそうだ。あまりのケツの穴の小ささに腹を抱えて笑い飛ばしたくなる。(卑語失礼)
(中略)
マルクス主義が影響力を持つ時代が終わってしまって、学者としてのアイデンティティが研究方法の次元で問われる時代に突入した。
結局、そのアイデンティティは研究のディテールに認めるほかなくなってしまった。だから、研究対象をなるべく細分化して、他の領域には手を出さないという、一言で言ってしまえば、タコツボ型がはびこったということだと思います。
これは、ルネサンスとかローマ史とか、つまり学者自身のイデオロギーがほとんど問われない分野においては全くその通りだと思う。
近現代史ではまだまだマルクス主義とは言わないまでもイデオロギー的な部分が幅を利かせているが、それ以前の歴史学では趣味オタクの世界に近づきつつある一面は否定できない。そうなるとオタクの特性であるディテールへの異常なこだわり、異分子への排他性などが悪い形で噴出し、実社会においてもてはやされる塩野七生など最も叩きごろの存在になるだろう。
もう一つ三浦の指摘で面白いと思ったのは、塩野が小林秀雄の影響を受けているといっていることだ。塩野自身は「?」という感じだが、小林が「歴史は神話である」、と言っているのを受けて塩野が「歴史は娯楽である」と言っている、と三浦は解釈しているわけだ。
(中略)
塩野は確かにそういうふうに歴史と言うものを書いているから、逆に学者からすれば自分たちのやっていることの存在意義を脅かされるような、馬鹿にされているような感じがしてしまうのも分らなくはない。
しかし、その違いを制度としての学問にこだわるか、人間存在そのものを問うために学問を使うと言う立場に立つかの違いだとするならば、私はやはり後者の立場に立ちたい。その方が生きてて面白いと思うんだけどなあ。
出典: 『塩野七生が叩かれる理由』
(2008年4月4日)
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つまり、塩野七生さんも「イタリア夫人」の一人だと。。。?
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その通りですよ。 僕は人生の半分以上を海外で暮らしているけれど、塩野七生さんは人生の半分以上をイタリアで暮らしている。 だから、「イタリア夫人」と呼んでも決して間違いではないと思うのです。
それで、デンマンさんは塩野七生さんが日本で叩かれていた事を知らなかったのですか?
知らなかったのですよ。 むしろ人気作家の一人だと思っていたのですよ。 実は、僕は記事の中で塩野さんの文章を引用したことがある。
二度と負け戦はしない
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憲法では戦争をしないと宣言しています、なんてことも言って欲しくない。
一方的に宣言したくらいで実現するほど、世界は甘くないのである。
多くの国が集まって宣言しても実現にほど遠いのは、国連の実態を見ればわかる。 ここはもう、自国のことは自国で解決する、で行くしかない。
また、多くの国が自国のことは自国で解決する気になれば、かえって国連の調整力もより良く発揮されるようになるだろう。
二度と負け戦はしない、という考えを実現に向かって進めるのは、思うほどは容易ではない。
もっとも容易なのは、戦争すると負けるかもしれないから初めからしない、という考え方だが、これもこちらがそう思っているだけで相手も同意してくれるとはかぎらないから有効度も低い。
また、自分で自分を守ろうとしないものを誰が助ける気になるか、という五百年昔のマキアヴェッリの言葉を思い出すまでもなく、日米安保条約に頼りきるのも不安である。
(注: 赤字はデンマンが強調。
写真はデンマン・ライブラリーより)
221 - 222ページ
『日本人へ (国家と歴史篇)』
著者: 塩野七生
2010年6月20日 第1刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋
『地球の平和』に掲載
(2011年8月9日)
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私も『地球の平和』を読みましたわ。
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おおォ〜。。。小百合さんも読んでくれたのですか?
ええ。。。読んだ感じでは、デンマンさんは塩野さんをかなり批判的な目で見ていると思ったのですが。。。
そうなのですよ。。。僕は個人的には塩野さんに恨みだとか憎しみの感情は持っていないのですよ。 むしろ、彼女の出世作とも言える『ルネッサンスの女たち』はマジで楽しく読んだ記憶があります。
それなのに、どうして急に批判的な目で見るようになったのですか?
あのねぇ〜、多分感性の違いだと思うのですよ。 こればかりは十人十色だからどうしようもない。
。。。で、デンマンさんの感性とは。。。?
次の小文を読んでみてください。
(すぐ下のページへ続く)