藤原鎌足の長男(PART 2 OF 3)
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Date: Tue, Aug 16, 2011 12:40 pm.
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Aug 16 2011 / 12:40:19
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読まれた記事:
『藤原鎌足と長男・定慧』
Comments :
とっても良いと思います。
。。。で、新しい古代日本史?
現在 そして これからの日本史は?
藤原不比等・・・↑
Thank you for using Bravenet Email Form Processing!
これってぇ、マジなコメントやのォ〜?
宣伝のためのURLや、落書きのようなことを書いているわけではあらへん。 しかも、コメントを実際に書いてみれば分かるけど、英語のサイトに飛んでゆくねん。 英語に親しんでない人が書いたら、多分、きしょくわるうのうて、コメントを投稿するのを止めてしまうと思うのやァ。 そやから、わざわざ書いたということは、記事を読んでかなりのインパクトを受けたことは確かなことやねん。
どうして、そないな事が、あんさんに判りはるのォ〜?
あのなァ〜、『藤原鎌足と長男・定慧』という記事には、これまでにもコメントをもろうておるねん。 そやから、わての経験から判るねん。 IPアドレスを調べたら岐阜県に住んでいる人やと分かった。
IPアドレス: 221.30.1.xxx
ホスト名:
softbank221030001xxx.bbtec.net
IPアドレス割当国: 日本
接続回線: xDSL
都道府県: 岐阜県
つまり、上のけったいなコメントをもろうたので「藤原鎌足の長男」というタイトルにしやはったん?
ちゃうねん。。。実は、偶然とは言いながら不思議な事が起こったのやァ。
「藤原鎌足の長男」が、あんさんの見やはった悪夢にでも現れはったん?
そないなアホな事が起こるかいな! 実はなァ、コメントをもらった頃に『温泉維新』という本を読んでいたのやァ。 そいで、次のような箇所に出会(でお)うたのやないかいなァ。
西山温泉
JR身延線身延駅から“南アルプス街道”をバスに揺られること1時間半。 やはり遠い。 それだけに、三千メートル級の山々が屹立する南アルプスの沢水を集めた早川の渓谷が一段とせばまったころ、忽然と現れる建物にだれしも安堵のため息をつくに違いない。 と同時に、山峡の宿とは思えない土壁風のシックで気品すら感じられる外観に驚くのである。
深山幽谷にたたずむ西山温泉の老舗旅館「慶雲館」。
館内に入ると、総檜造りの日本建築の粋を結集した落ち着いた雰囲気に包まれる。
その白眉は、壁面にパノラマガラスがはめられたロビーだ。
眼下の早川と渓谷に迫った幾重にも重なり合う南アルプスの山々のダイナミックなこと。
これぞ本物の自然である。
(中略)
城崎温泉「千年の湯 古まん」(兵庫県豊岡市)、粟津温泉「法師」(石川県小松市)と共に、慶雲館の創業は奈良時代にまでさかのぼる。
慶雲2年(705年)、藤原鎌足の長男、藤原真人が温泉を発見し、深澤さんで52代目とか。
(注: 赤字はデンマンが強調
写真と地図はデンマン・ライブラリーより)
111 - 112ページ 『温泉維新』
著者: 松田忠徳
2010年4月22日 初版第1刷発行
発行所: 日本経済新聞出版社
あらっ。。。藤原鎌足の長男である定慧さんが西山温泉を発見しやはったん?
藤原鎌足の長男である藤原真人さんが坊さんになって“定慧”と名乗ったのやがなァ。 でもなァ、定慧さんは665年12月23日に、23歳の若さで暗殺されてしもうたのや。
新百済派(旧百済朝廷遺臣)と
旧百済派(鎌足派)の対立
定慧から送られてくる情報によって、鎌足は、的確に当時の半島情勢を把握しています。しかし、新百済派に取り囲まれている天智天皇は、防衛網構築に躍起になっており、唐に対する外交政策を強力に推し進めようとする鎌足を煙たい存在に思い始めています。しかも、鎌足に敗戦の責任までなすりつけようとしています。
上の地図で見るように、かなりの数の山城を九州から近畿にかけて築き、また九州には大規模な水城を構築しています。 これらは、百済から逃げてきた技術者や、戦略家の指導の下に進められているもので、この頃には、実戦経験、実務経験の豊富な百済人がどしどし登用されて、鎌足を中心として活躍していた旧百済派は次第に影の薄い存在となりつつありました。 それでも、鎌足は天智帝に唐と仲良くしてゆく以外にないことを説きます。 しかしこのことは、新百済派の人たちにとっては、どうしても承諾できないことです。 「祖国を滅ぼした唐と日本が連合する?そんな馬鹿なことができるか!」
定慧が日本へ帰って来た665年という年は、まさに、天智朝廷では、このような議論が沸騰しているときでした。 そのようなときに、定慧が、唐からの書状を携えてやって来るということをキャッチした新百済派の連中は、急遽天智帝を交えての緊急会議です。 天智帝にしてみれば、まだ唐に敗れたという生々しい記憶が脳裏に焼きついています。 しかも、定慧は、憎き孝徳帝の息子です。 「何で唐の手先などになって帰ってくるのだ!」
それで決まりです。
藤原氏の家伝には、「百済人に妬まれて殺された」となっています。
しかし、これは、新百済派の刺客によって殺されたと書くべきでした。
しかも、天智帝はすべてを知っていたのです。
定慧は11歳のときに日本を離れてから12年間に及ぶ唐・百済の旅を終えて天智4年(665)年9月に、やっと故郷へ帰ってきます。
しかし彼を首を長くして待っていたのは鎌足だけではありませんでした。
懐かしいふるさとの風景に浸っていたのはわずかに3ヶ月でした。
定慧はスパイ活動をしていましたから、身の危険については十分に知っていたでしょう。
しかし、グループで襲われたなら防御のしようがありません。
12月23日に、23歳の若さで亡くなります。
数奇な運命の下に生まれて、異国で暮らさなければならなかった定慧が懐かしい日本へやっと帰り着いて、ほっとする暇もないうちに、まだこれからという人生の幕を閉じなければならなかったのです。
この事件によって、鎌足親子と天智帝の間には、修復が不可能なほどに亀裂がはいってしまいます。
この時不比等は大海人皇子と組んで天智政権を打倒することを決心したのでした。
『定慧の死の謎を解く』より
(2003年7月25日)
あんさんが読みはった本の中には慶雲2年(705年)、藤原鎌足の長男、藤原真人が温泉を発見したと書いてありますやん。 可笑しいですやんかァ! 著者が日付を間違ったんとちゃうん?
そうかも知れへんと思って、わては調べてみたのや。
西山温泉の起源についての伝説
その昔、藤原真人がこの地方に流浪し「柳が島」に住んでいました。
真人は土地の娘をめとり双児の兄弟をもうけました。
名を兄が四郎長磨、弟を六郎寿磨と名づけたといいます。
ある日、真人は狩猟の途中、湯川のほとりにさしかかった時、岩の間より盛んに噴き出している熱湯を偶然に発見したのです。
試みに入ってみたところ、神気爽快、四肢軽快今までの労れもすっかり治ってしまったので大変驚き、また喜びました。
その後、真人は険しい山の中に道を開き、湯つぼを造るなどして、「近隣に隠れた名湯あり」とまで諸村に伝えられるようになりました。
文武天皇の慶雲二年(西暦七○五年)三月のことでありました。
これが、西山温泉の起源と伝えられています。
医薬品らしいもののなかった往古の時代、病弱に苦しむ人々は無理をおしても集まり、西山温泉に入浴する人の数は年ごとに増えるようになっていきました。
出典: 『山梨県 西山温泉 慶雲館』
旅館のホームページにも、こないに書いてあるねん。
やっぱり、705年と書いてますねんなァ。 そやけど、定慧さんは665年12月23日に、23歳の若さで暗殺されてしもうたと、あんさんは断定しているやおまへんかァ!
そうやァ。。。
そうやァではおまへんがなァ! あんさんは出鱈目を書きはったん?
アホな事をいいないなア! 出鱈目など書くかいなァ!
そやけど、どちらかが出鱈目を書いてるということやんか。
そうや。。。そやから、わてはさらに調べてみたのやァ。
慶雲館
日本の甲斐国(現・山梨県)で西山温泉の宿として慶雲2年(703年)に開湯・創業。
2011年2月中旬、「世界で一番古いホテル・旅館」として、それまで認定されていた後述の「法師」に替わってギネス・ワールド・レコーズ(ギネスブック)に認定された。
「創業者一族が経営を続ける現存企業」として世界最古ともされる(ギネス認定時の当主は、開湯・創業者である藤原真人から数えて52代目にあたる)。
もっとも、ここで言う藤原真人が中臣真人こと「定恵」を指すのであれば、643-666年の人物であり、703年には開湯できない。
出典: 「世界最古の一覧」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『ウィキペディア(Wikipedia)』には、こないに書いてあるねん。
つまり、藤原真人が中臣真人こと「定恵」を指すのであれば、643-666年の人物であると言うてますやん。
そうやろう! つまり、藤原鎌足の長男は665年か666年に亡くなっておるねん。 当時の状況から考えて暗殺されたという事が最も妥当やと、わてには思えるのやァ。
そやかて藤原真人が「慶雲館」の創業者とういことになってますやん。
あのなァ〜、めれちゃんも知っていると思うけど。。。源義経は頼朝の手勢から逃れて東北の地で死んだのやァ。 そやけど、そう思わん人もたくさんおった。 その人たちは、義経はその後、中国大陸に渡って蒙古人を組織して、やがてジンギスカンになり、世界を制覇したという事を真面目に信じておるねん。 そやから、藤原鎌足の長男である定慧さんは665年12月23日に、23歳の若さで暗殺されたのではなくて、実は、関東に移住して「慶雲館」の創業者になったと言う事を真面目に考えている人がいるのも決して可笑しなことではあらへん。
でも、歴史的事実を変えてしもうたら、アカンとわたしは思うねん。
でもなァ、伝説というものは歴史的な事実とは関わりなく人の心の中に残ってゆくねん。 源義経がジンギスカンになったというのもその例やがなァ。 義経の悲劇はあまりにも可哀想やったのやァ。 そやから、日本人の間に義経に同情する「判官びいき」が生まれる。 定慧さんも、あまりにも可哀想な事件に巻き込まれてしもうたのや。 そやから、定慧さんが「慶雲館」の創業者になって生き延びたというのも、わてには十分に分かるのや。
そやけど、歴史と判官びいきは区別せんとアカンと、わたしは思うわ。
ええねん。。。その伝説が人を殺したり不幸せにするものでない限り、「慶雲館」の温泉に浸かって癒されれば、それでええねん。
(すぐ下のページへ続く)