愛の地獄(PART 1)
デンマンさん。。。あんさんは思わせぶりなタイトルと画像を付けはって何かエッチな事でも話しはるのォ〜?
めれちゃんはそのように感じるのか?
そやかて上の画像とタイトルを見たら誰かて、そう思いはるでぇ〜。。。
さよかァ〜。。。?
あんさん!。。。前置きはええから、はよう本題に入らんかいなァ!
あのなァ〜、わては夕べ、バンクーバー図書館で日本の映画のDVDを観たのや。
何という映画やしたのォ〜?
『地獄変』というタイトルやァ。 めれちゃんのために予告編を貼り付けるさかいに、じっくりと観たらええやん。。。
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ずいぶんと古い映画やないかいなァ。 確か、1969年に作られたと思いますでぇ〜。 40年以上も前やん。
あれっ。。。めれちゃんは観たことがあるのんかァ〜?
ありませんがなァ!。。。わたしはまだ生まれてへんかったわ。
それなのにどうして1969年に作られたと知っとるねん?
この映画は芥川龍之介の原作を映画化したということを高校の時の先生が言ってましたわ。
それにしても、そのような事をよう覚えておったなァ〜?
わたしは、あらすじをウィキペディアで読んだことがありましたさかいに。。。それで覚えていたのですねん。
『地獄変』
時は平安時代。絵仏師の良秀(りょうしゅう)は高名な天下一の腕前として都で評判だったが、その一方で猿のように醜怪な容貌を持ち、恥知らずで高慢ちきな性格であった。
そのうえ似顔絵を描かれると魂を抜かれる、彼の手による美女の絵が恨み言をこぼすなどと、怪しい噂にもこと欠かなかった。
この良秀には娘がいた。
親に似もつかないかわいらしい容貌とやさしい性格の持ち主で、当時権勢を誇っていた堀川の大殿に見初められ、女御として屋敷に上がった。
娘を溺愛していた良秀はこれに不満で、事あるごとに娘を返すよう大殿に言上していたため、彼の才能を買っていた大殿の心象を悪くしていく。
一方、良秀の娘も、大殿の心を受け入れない。
そんなある時、良秀は大殿から「地獄変」の屏風絵を描くよう命じられる。
話を受け入れた良秀だが、「実際に見たものしか描けない」彼は、地獄絵図を描くために弟子を鎖で縛り上げ、梟につつかせるなど、狂人さながらの行動をとる。
こうして絵は8割がた出来上がったが、どうしても仕上がらない。燃え上がる牛車の中で焼け死ぬ女房の姿を書き加えたいが、どうしても描けない。
つまり、実際に車の中で女が焼け死ぬ光景を見たい、と大殿に訴える。
話を聞いた大殿は、その申し出を異様な笑みを浮かべつつ受け入れる。
当日、都から離れた荒れ屋敷に呼び出された良秀は、車に閉じ込められたわが娘の姿を見せつけられる。
しかし彼は嘆くでも怒るでもなく、陶酔しつつ事の成り行きを見守る。
やがて車に火がかけられ、縛り上げられた娘は身もだえしつつ、纏った豪華な衣装とともに焼け焦がれていく。
その姿を父である良秀は、驚きや悲しみを超越した、厳かな表情で眺めていた。
娘の火刑を命じた殿すら、その恐ろしさ、絵師良秀の執念に圧倒され、青ざめるばかりであった。
やがて良秀は見事な地獄変の屏風を描き終える。
日ごろ彼を悪く言う者たちも、絵のできばえには舌を巻くばかりだった。
絵を献上した数日後、良秀は部屋で縊死する。
(写真はデンマン・ライブラリーより)
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あんさんは、どうして『地獄変』のDVDを借りて観る気になりはったん?
なんつったってぇ、良秀の娘役の内藤洋子がええやんか! 当時はアイドルやったからなァ。
つまり、あんさんのアイドルやったん?
いや。。。わてはそれほどのファンではあらへんかった。 この映画は当時、けっこう話題になったものやァ。 そやけど、わては観たことがあらへんかった。 たまたまバンクーバー図書館のDVDの棚を見ていたら、タイトルに目が惹きつけられたのやァ。
それで手にとって借りることに決めはったん?
そういうこっちゃ。 めれちゃんも『地獄変』について結構知っているようやな?
高校の時の現代国語の先生が『地獄変』を取り上げて熱心に教えたのが今でもオツムに浮かびますねん。 それで先生の勧めるままに、わたしは学校の図書館で説話集『宇治拾遺物語』の「絵仏師良秀」を見つけて読みましてん。
もともとの話は、どないになってるねん?
次のような話ですねん。
「絵仏師良秀、
家の焼くるを見て悦ぶの事」
これも今は昔、絵仏師の良秀という者が居た。
隣家から家事が起こり、風が吹きまくって火が迫ってきたので、逃げ出して大通りに出た。
家には人から注文された仏画も置いてあった。
また衣類も着ていない妻子なども、みな家に居た。
それもかまわず、ただ自分だけ逃げ出せたのをよいことに、道の向かい側に立っていた。
見ると、すでにわが家に火が燃え移って、煙や炎がくすぶりだす。
それを、ずっと向かい側に立って眺めていた。
「たいへんだ」と、人々が見舞いに来たが、まるで騒がない。
「どうしました」と人々が言うと、向かい側に立って自分の家の焼けるのを見てうなずいては、時々笑っていた。
「ああ、これはたいへんなもうけ物よ。
今まではまったく要領を得ずに描いていたものだ」
と言う時に、見舞いに来た者たちが、
「これはまたなぜに、こうして立っておいでになる。
あきれたことだ。
物の怪がとり憑きなさったか」
と言うと、
「なんでそんなものがとり憑くはずがあろう。
長い間不動尊の火焔を非現実的に描いていたのだ。
今見ると、こういうように燃えるものだと、それが分かったのだ。
これこそもうけ物だ。
仏画の道を立てて世を送るには、仏さえ立派に描けるなら、家なんかいくらでも建てられよう。
あなたたちこそ、さしたる才能もお持ち合わせにならないから、物を惜しみなさるのだ」
と言って、あざ笑って立っていた。
その後の作であろう、良秀のよじり不動といって、いまだに人々がたたえ合っている。
『宇治拾遺物語』より
(現代語訳: めれんげ)
わたしの拙(つたな)い現代語訳ですけど、元々の話は、こないな感じですねん。
ほおォ〜。。。なかなかええ感じに訳してるやん。。。それにしても映画のあらすじとだいぶちごうてるなァ〜?
そうですう。。。そやから、わたしは芥川龍之介の創作力に感銘を受けましてん。
さよかァ〜。。。?
。。。で、あんさんは何か感じることがありましたん?
あのなァ〜。。。映画では「堀川の大殿」というのは藤原道長になっている。 それで映画の中でも、あの有名な歌を詠むねん。
この世をば
わが世とぞ思ふ
望月の
欠けたることも
なしと思へば
この世は自分(道長)のためにあるものだ。
だから満月が欠けることはないのだよ!
うしししし。。。
(デンマン意訳)
あんさん。。。この歌がどうしたというの?
あのなァ〜。。。藤原道長はこのような栄華の歌を詠(うた)っていたのやけど、映画の中でも出てくるように庶民の生活は地獄のようやったのや。
それが、どうやというのォ〜?
そのことで、わては記事を書いたことがあるねん。
平安時代は、
決して平安ではなかった
黒澤明監督の、『羅生門』という映画を見たことがあるでしょうか?
原作は芥川龍之介の短編小説「藪の中」です。
戦禍に荒れ果て、疫病が流行し、天災が続いた平安時代の話しです。
先ず画面に現れるのは、激しい夕立の中、壊れかけた羅生門の下で杣売りと旅法師が雨宿りをしながら考え込んでいます。
羅生門というのは、都の正門ですから、完成したときの姿は上の写真に見るような豪華なものだったはずです。
しかし、今、言ったように、「平安」時代でありながら、現実は、庶民にとって、ずいぶんときびしい時代だったようです。
というのは、映画の中では、羅生門が、下に示すような無残な姿で現れるからです。
破れ羅生門の下で雨宿りしている二人のところへ、みすぼらしい浮浪者みたいな男が駆け込んできます。押し黙る二人、どうかしたのかと、その訳を聞きます。
二人は三日前におきた恐ろしくも不思議な話を語り始めるのです。
都のはずれで起きた殺人事件について、犯人の男、犯された女、殺された男(霊媒を通して語る)、事件を目撃した木樵がそれぞれ証言するのですが、どの話もすべて食い違うというミステリーです。
最後の最後まで事件の真相が明らかにならないことが、当時の観客や批評家には難解でした。
製作した映画会社内でも不評で、担当者は更迭されたということです。
黒澤明監督は苦境に立たされたわけですが、ヴェネチア映画祭グランプリ受賞で大逆転。
今では戦後日本映画史を代表する作品のひとつになっているわけです。
面白く(もちろん、ゲラゲラと笑うような面白さではありません)、しかも見ごたえのある映画です。見たことのない人には、ぜひ見ることを薦めます。
話がちょっとばかり、横道へそれました。
なぜ羅生門を持ち出したのか?
それは、この当時の庶民の生活と、藤原氏の生活を比べるためです。
庶民は、といえば、こういう破れ羅生門と隣りあわせに生活していたわけです。
しかし、よーく考えてみてください。
この羅生門というのは都の正門ですよ。
今なら、さしずめ東京駅か、成田国際空港でしょう。
それがもう、上の写真で見るようにボロボロです。
もちろん藤原氏が政権を握っています。
これは、戦国時代の話ではありません。
この当時、誰が政権を握っていたかというと、藤原道長の息子である藤原頼道(よりみち)です。
ところが、夜盗が、昼間から横行し、人殺し、追いはぎ、そういったものは、もう日常茶飯事です。
そこで、問題になるのが、藤原氏はどんな生活を送っていたのかということです。
この時代には、末法(まっぽう)思想が、流行歌のようにはやっていました。
要するに、この世が終わりに近づいているという考えです。
その終わりが1052年(永承7)となっていました。
そこで、藤原頼道(よりみち)は次に示すような別荘を作りました。
どこかで見たことがあるでしょう?
そうです。10円玉の裏に描かれている。
平等院鳳凰堂です。
要するに、世界の終わりが近づいてきたものだから、敷地内に阿弥陀(あみだ)堂を造ります。
阿弥陀堂とは何か?
それは阿弥陀如来(あみだにょらい)を奉るお堂ということです。
阿弥陀さんは、西方の極楽浄土に住んでいる教主です。
建物の形が鳳凰、つまり不死鳥(Phoenix)に似ているところから、そう呼ばれますが正式には平等院阿弥陀堂と呼ぶそうです。
つまり、都の正門がボロボロだろうが、火事で燃えて無くなろうが,そんな事は藤原氏にとっては、どうでもいいわけです。
自分だけが阿弥陀さんのそばにいれば、庶民がどうなろうと知った事ではないと思っていたわけです。
この当時は検非違使(けびいし)という現在の警察にあたるものはありましたが、正式には、法律に定められていない組織でした。
それで、都といえども、警察などあってもないようなもので、無政府状態だったわけです。
そんなわけで、人殺し、盗みはしたい放題といった状態です。
今の感覚からすれば、もうむちゃくちゃです。
これが、藤原政権のやっていることです。
要するに、庶民の事など、虫けらも同然のように考えているわけで、まともな政治なんてやっていません。
平安時代というと、いかにも優雅で、雅やかな、なんとなく源氏物語絵巻などが、イメージとして浮かんできますが、とんでもない話です。
おそらくそれは、藤原氏の、ごく一部の生活模様だったでしょう。
『平安時代は決して平安ではなかった』より
『国民不在(2010年1月24日)』にも掲載
(すぐ下のページへ続く)