士風と『葉隠』(PART 1)
福沢(諭吉)は『瘠我慢(やせがまん)の説』で三河武士の士風の美を讃え、幕府のために戦って死ななかった勝海舟や、一度は箱根に籠城したのに、負けた後、新政府で出世してしまった榎本武揚(たけあき)を批判しているんだ。
それは徹底的に忠君愛国の武士道の「瘠我慢」を支持しているんだからね。
冒頭、出てくる「立国は私なり、公に非ざるなり」というのは、単なる「自分のことしか考えない私を寄り集めたら国ができる」なんて話じゃないからね。
世界大で見れば、立国は徹底した自己本位の私情を貫くことに他ならない。
他国の利益を考えてやるような公共心は世界大では通用しないという、恐るべきナショナリズムのことなんだよ。
これを戦後の文学者も批評家もすべて読み誤っている。
福沢はまず一般的な人の持つ疑問を並べ立ててみせるんだよ。
人と人はなんで国境を決めて争うんだろう、君主を立てるんだろう。
こんなものはすべて、人間の私情から生じたものなのに、と。
そして現実論を言い始める。
そうは言っても、現実は開国以来、世界中を見てみれば、各種の人民相別れて一群を成し、国や政府を作って忠君愛国が最上の美徳となっている。
忠君愛国は世界大の哲学からみれば人類の私情なんだが、やはり今日までの厳しい世界事情の中では美徳であり、「立国の公道」と言わざるを得ない。
…そういうふうに話は逆転してくるんだ。
そして、ついに福沢は、こう言い始める。
「自国の衰退に際し、敵に対して固(デンマンは【個】だと思いますが…)より勝負なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽くし、いよいよ勝負の極に至りて、始めて和を講ずるか、若しくわ死を決するは、立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称す可きものなり」
これが福沢の言う「瘠我慢の説」だよ。
つまり合理主義を排している。
負ける戦争と分かってるものをするな、という司馬遼太郎や、最近の保守主義者が言ってるような生ぬるい感覚じゃないんだ。
「士風こそを後世に伝えよ」と言っとるんだ。
まさに大東亜戦争にわしが共鳴するゆえんのところを福沢はすでに、この時点で言ってくれてるんだからね。
これこそが、わしが『戦争論』を描いたモチーフになっとる。
だから最初にわしは『戦争論』の中で、すもう大会のエピソードを描いたんだ。
負けるとわかっているのに、すもう大会に出ていって大恥をかく。
その非合理の中にしか倫理は生まれないだろうって。
あのエピソードと、大東亜戦争の重なりの意味を、誰も見抜けない。
それは戦後の文学者、批評家が福沢諭吉すら、ちゃんと読み解く能力がなかったからに他ならない。
(注: 写真とイラストはデンマンライブラリーから貼り付けました
赤字はデンマンが強調のために施しました)
369 - 370ページ 『「個と公」論』
著者: 小林よしのり
2000年5月10日 第2刷発行
発行所: 株式会社 幻冬舎
『漫画家と平和』に掲載
(2011年3月6日)
デンマンさん。。。オイラをお呼びですか?
おおォ〜。。。マンガ家! 首を長くして待っていたんだよォ。
今日は士風と『葉隠』ですか?
そうだよ。。。オマエは何か不満があるの?
確かに、オイラは「士風」について本の中で書きました。 でも、『葉隠』については一言も触れていませんよ。
でもオマエは九州男児だろう?
そうです。
だったら『葉隠』を知ってるだろう?
もちろん知ってますよ!
それなら、僕が『葉隠』を話題に取り上げたってぇ、オマエが不満を漏らすことはないだろう?
でも、デンマンさんは『葉隠』を持ち出してきてオイラを貶(おとし)める根拠にしようとしていますよ。
どうして、そう思うの?
イヤな予感がするのですよ。
そのイヤな予感こそ何の根拠もないじゃないか!
根拠はありますよ。 これまでにデンマンさんはオイラを批判する記事をずいぶんと書いてきましたからね。。。
■『漫画家と平和(2011年3月6日)』
■『漫画家の壁(2011年3月10日)』
■『漫画家と奴隷(2011年3月12日)』
■『畳の上の水練(2011年3月15日)』
■『パール判事とゴーマン(2011年3月18日)』
■『軍隊のない国(2011年3月21日)』
デンマンさんはまるでオイラを目の敵にするかのように、立て続けにイヤな記事を書いているのですよ。
オマエは批判されるのが嫌いなの?
いや。。。もう慣れていますから、デンマンさんがオイラを批判したところで痛くも痒くもありません。
だったら、タラタラ不満そうに言わなくてもいいだろう。
でも、デンマンさんの真意は何ですか? オイラをイジメたいのですか?
僕はオマエをイジメてないよ! イジメてるのは僕じゃなくてオマエの方だろう?
オイラが誰かをイジメていると、デンマンさんは言うのですか?
いや。。。僕が言ってるのじゃなくて、オマエの読者が言ってるのだよ!
その証拠でもあるのですか?
あるよ。 オマエは本の中で次のような読者の反応を載せていたじゃないか!
『SAPIO』連載中、
もう中島(岳志)いじめはいい、
小者は相手にするな
パールの話はあきた、
という反応が読者からあった。
論理を徹底せず、あいまいで済ます
いかにも日本人の反応だ!
そんなことだから戦後の言論空間は
サヨクのデマに支配されたままなんだ!
172ページ 『パール新論』
著者: 小林よしのり
2008年6月28日 初版第1刷発行
発行所: 株式会社 小学館
デンマン注:イラストはデンマンが貼り付けました。
強調のための赤字もデンマンが施(ほどこ)しました。
『パール判事とゴーマン(2011年3月18日)』に掲載
つまり、オイラが中島岳志をイジメたので、今度はデンマンさんがオイラを虐めるのですか?
違うよ! 僕はオマエを尊敬しているのだよ! 決して虐めようとしているのじゃない!
でも、デンマンさんはオイラを尊敬しているようには見えません!
あのなァ〜。。。、尊敬できないような人間を批判するのは愚の骨頂だよ! 時間の無駄だよ!
でも、過去にデンマンさんは「成りすまし馬鹿」だとか「漢字馬鹿」だとか「国際馬鹿」だとか。。。ありとあらゆる馬鹿を批判していますよ。 そのような馬鹿をもデンマンさんは尊敬しているのですか?
あのさァ〜、昔の人は次のような格言を残してくれたんだよ!
“一寸の虫にも五分の魂”
どのような馬鹿にも五分の魂がある。 だから、僕はどのような馬鹿でも人間として平等だという意味で五分の魂を尊敬しているのだよ。
つまり、オイラも「成りすまし馬鹿」や「漢字馬鹿」や「国際馬鹿」と同じ穴の狢(むじな)だとデンマンさんは信じ込んでいるのですか?
同じじゃないかもしれないけれど、例え違いがあるとしても50歩百歩だよ。
分かりました。。。で、どうして『葉隠』を持ち出してきたのですか?
オマエは次のように書いていた。
忠君愛国が最上の美徳となっている。
忠君愛国は世界大の哲学からみれば
人類の私情なんだが、
やはり今日までの厳しい世界事情の中では
美徳であり、「立国の公道」と言わざるを得ない。
千辛万苦、力のあらん限りを尽くし、
いよいよ勝負の極に至りて、
始めて和を講ずるか、
若しくわ死を決するは、
立国の公道にして、
国民が国に報ずるの義務と称す可きものなり
負ける戦争と分かってるものをするな、
という司馬遼太郎や、
最近の保守主義者が言ってるような
生ぬるい感覚じゃないんだ。
「士風こそを後世に伝えよ」と言っとるんだ。
(注: 赤字はデンマンが強調)
この部分を読み返すと、その真髄は『葉隠』と共通するものがある。
デンマンさんにも分かりますか?
オマエが書いた『「個と公」論』にも『パール真論』にも“葉隠”という言葉は一度も使われてないけれど、「士風」とは『葉隠』で言うところの「武士道」だと僕は思うのだよ。
まあ。。。当たらずと言えども遠からずと言うところですよ。
そうだろう!? オマエは意識して『葉隠』を持ち出さなかったの?
生理的に『葉隠』を受け付けない人も居ますからね。
でもさァ〜、このページのトップに僕が引用したオマエの文章を読むと『葉隠』が行間に見え隠れしている。
デンマンさんにも、そう見えますか?
そうだよ。 しかもだよ。 オマエがりきんで熱くなって“「士風こそを後世に伝えよ」と言っとるんだ”なんて叫んでいるのを見ると、三島由紀夫が出てきそうな気がするんだよ。(微笑)
あれっ。。。デンマンさんは、そこまでオイラの本を深読みしてしまったンすかァ〜?
そうだよ。。。もしかして、オマエは三島由紀夫の熱烈なファンなんじゃないの?
デンマンさんは、その事が言いたくて『葉隠』を持ち出してきたのですか?
いや、違う! たまたま高橋秀郎さんが書いた本を読んでいたら、とっても興味深い箇所に出くわしたんだよ。
(すぐ下のページへ続く)