松平春嶽が黒幕? (PART 1)
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デンマンさん。。。 どういうわけで“松平春嶽が黒幕?”というようなタイトルをつけて あたくしをお呼びになったのでござ~♪~ますか?
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あのねぇ~、僕が行田市に帰省している間 たまたま11月19日に NHK スペシャル「ドラマ 龍馬 最後の30日」という番組を見たのですよ。
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今年没後150年を迎える、幕末のヒーロー・坂本龍馬。
龍馬といえば、薩長同盟と大政奉還の立役者。
しかし、その人生のクライマックスは、大政奉還を成しとげた後、暗殺されるまでの最後の30日にあったことが、近年次々と発見されている資料から明らかになってきました。
龍馬が目指したのは、内戦を避け、平和裏に新たな時代を作ろうという、「新国家計画」にむけた具体的な計画。
さらに大胆に推測すれば、この計画こそが、龍馬暗殺の引き金となったかもしれないという「新たな暗殺論」まで浮かび上がってきているのです。
明治維新後の日本政治の大事な分岐点であったかもしれない大政奉還後の1か月。
常に身の危険を感じながらも、命を懸けて闘った知られざる“龍馬最後の30日”を、今年新たに発見された龍馬暗殺5日前の手紙を手がかりに大胆な仮説に基づき、スリリングなドラマとして描きます!
あらっ。。。 このような番組があったのでござ~ますかァ?
卑弥子さんは観なかったのですか?
あたくしは源氏物語学会で 発表するための原稿書きに忙しくて 観る暇がござ~ませんでしたわァ。。。 で、坂本龍馬を暗殺した黒幕が松平春嶽様だと番組でバラしたのですかァ?
そうなのですよ。。。 僕にしてみれば 悪い冗談以外のナニモノでもありません。
でも、今年新たに発見された龍馬暗殺5日前の手紙を手がかりに “松平春嶽が黒幕”だというスリリングなドラマなのでしょう?
そうなのですよ。。。 でもねぇ~、それはありえないことなのですよ。
どうしてでござ~ますかァ?
松平春嶽さんが坂本龍馬を殺すはずがないのです。
でも。。。、でも。。。、今年新たに発見された龍馬暗殺5日前の手紙を手がかりにと書いてあるではござ~ませんかァ!
あのねぇ~、そういう手紙が出てくると、何とかして世間の注目を集めるような ミーちゃん、ハーちゃんをアッと言わせるような仮説を立てたいと思う愚か者が出てくるのですよ!
つまり、そういう愚か者が“松平春嶽が黒幕!?”というようなドラマを作ったとデンマンさんは主張するのでござ~ますかァ?
そうです。。。
デンマンさんがそのように言うからには暗殺の黒幕が 他に居るという証拠があるのでしょうねぇ~?
かつて、この事で僕と卑弥子さんで語り合ったのですよ。。。 もう忘れてしまったのですか?
もちろん、覚えておりますわァ。。。 大久保利通が暗殺の黒幕だったというのでしたわねぇ。。。
その通りですよ。。。 松平春嶽と坂本龍馬の間には人間的な信頼関係があった。。。 つまり、坂本龍馬を殺す動機が松平春嶽にはないのです!
そうかしら? 春嶽さんだってぇ、坂本さんの人物を100パーセント優れた人間だと思っていたわけではないと思いますわァ~。。。
確かに、卑弥子さんが そのように言うのはもっともです。。。 でもねぇ~、松平春嶽さんが坂本龍馬を亡き者にするよりも 大久保利通の方が 坂本の死後もっと得をするのですよ。。。 その事は歴史が証明しているのです。
マジで。。。?
まず、卑弥子さんも次の龍馬の略歴を読んでみてください。
坂本龍馬
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天保6年11月15日(新暦・1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(新暦・1867年12月10日)
坂本龍馬(さかもと りょうま)は、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。
諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬。
土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。
薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えるなど、重要な働きをした。
大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。
1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。
勝海舟との出会い
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龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、己の固陋を恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広く知られており、この話は海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典である。
だが、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であること、また海舟の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時には既に龍馬は弟子であった可能性があることから、近年では前述の龍馬と海舟との劇的な出会の話は海舟の誇張、または記憶違いであるとする見方が強い。
いずれにせよ、龍馬が海舟に心服していたことは姉乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛していることによく現れている。
龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助・新宮馬之助・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。
また、龍馬が土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件はこの頃のことである。
5月17日付の姉乙女への手紙で「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候・・・すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」と近況を知らせている。
船中八策と大政奉還
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いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は慶応3年(1867年)6月9日に藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち兵庫へ向かった。
京都では将軍・徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。
龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を後藤に“船中八策”を提示した。
1.大政奉還 2.議会開設 3.官制改革 4.条約改正 5.憲法制定 6.海軍の創設 7.陸軍の創設 8.通貨政策
長岡謙吉が筆記したこれは、後に成立した維新政府の綱領の実質的な原本となった。
龍馬の提示を受けた後藤は直ちに京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、この時既に中岡慎太郎の仲介によって乾退助、毛利恭助、谷干城らが薩摩の西郷隆盛、吉井友実、小松帯刀らと薩土討幕の密約を結び、翌日容堂はこれを承認した上で、乾らと共に大坂で武器300挺の買い付けを指示して土佐に帰藩していた。
この為、大坂で藩重臣と協議してこれを藩論となした。
次いで後藤は6月22日に薩摩藩と会合を持ち薩摩側は西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通、土佐側からは坂本龍馬・中岡慎太郎・後藤象二郎・福岡孝弟・寺村左膳・真辺正心(栄三郎)が代表となり、船中八策に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。
後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行い、これから程ない6月26日、芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。
後藤は9月2日に京都へ戻ったが、イカロス号事件の処理に時間がかかったことと薩土両藩の思惑の違いから、9月7日に薩土盟約は解消してしまった。
その後、薩摩は討幕の準備を進めることになる。
事件の処理を終えた龍馬は新式小銃1,000余挺を船に積んで土佐へ運び、9月23日、5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。
10月9日に龍馬は入京し、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日に二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。
慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、あなたはその場で切腹する覚悟でしょうから、後下城なき時は、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」と激しい内容の手紙を送っている。
一方、将軍・徳川慶喜は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。
翌14日に明治天皇に上奏。
15日に勅許が下された。
この大政奉還・上奏の直前(10月14日)に討幕の密勅が薩摩と長州に下されていた。
大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕実行延期を命じられている。
展望が見えた龍馬は10月16日に戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の「新官制擬定書」を策定した。
龍馬が西郷に見せた新政府職制案の名簿に西郷の名はあるのに龍馬の名が欠けていて、新政府に入ってはどうかと勧めると龍馬は「わしは世界の海援隊をやります」と答えたという有名な逸話がある。
だが、尾崎の史料には龍馬の名は参議候補者として記載されており、この逸話は大正3年に書かれた千頭清臣作の『坂本龍馬』が出典の創作の可能性がある。
しかしながら、龍馬本人は役人になるのは嫌とお龍に語ったとされ、11月の陸奥への手紙には「世界の話もできるようになる」ともあり尾崎の案と西郷に見せたものは違う名簿という可能性なども考えられる。
尾崎の手控とされる資料は数種あり、参議の項に坂本の名の有無、大臣の項に慶喜の名の有無などの違いが指摘されている。
暗殺
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後藤象二郎の依頼で、慶応3年10月24日に越前へ出向き、松平春嶽の上京を促して三岡八郎と会談した後、11月5日に帰京した。
11月15日、龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。
当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。
午後8時頃、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人が来訪し面会を求めて来た。
従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。
龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害された。
享年33(満31歳没)。
当初は新選組の関与が強く疑われた。
また、海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復を疑い、12月6日に陸奥陽之助らが紀州藩御用人・三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛に当たっていた新選組と斬り合いになっている(天満屋事件)。
慶応4年(1868年)4月に下総国流山で出頭し捕縛された新選組局長・近藤勇は土佐藩士の強い主張によって斬首に処された。
また、新選組に所属していた大石鍬次郎は龍馬殺害の疑いで捕縛され拷問の末に自らが龍馬を殺害したと自白するも、後に撤回している。
明治3年(1870年)、箱館戦争で降伏し捕虜になった元見廻組の今井信郎が、取り調べ最中に、与頭・佐々木只三郎とその部下6人(今井信郎・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂隼之助・土肥伴蔵・桜井大三郎)が坂本龍馬を殺害したと供述し、これが現在では定説になっている。
その一方で、薩摩藩黒幕説やフリーメイソン陰謀説まで様々な異説が生まれ現在まで取り沙汰されている。
出典: 「坂本龍馬」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この略歴を見ても明らかなように、坂本龍馬は薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えるなど、重要な働きをしたのですよ。
でも、板垣退助が龍馬神話を広めたと言う人も居るのでござ~ますわァ。
知ってます。。。 坂本龍馬が“流れ者”だとか“暴れん坊”だとか、単なる“武器商人”だと信じている愚か者も居るのですよ! でも、龍馬が“流れ者”だとか“暴れん坊”だと言うなら、暗殺される理由がない! あのねぇ~、坂本龍馬が神武天皇のように2600年以上も昔に生きていたなら、“龍馬神話”ということも考えられるけれど、龍馬が暗殺されてから、まだ150年と経過してないのですよ。。。 だから、史実に基づいて“神話”でないことは立証することができるのです。
つまり、坂本龍馬は明治維新以後の近代化を肯定するために、むりやり神話化された幻想の人物像ではなく、実際に偉大な人物だった、とデンマンさんは証拠に基づいて これからあたくしを説得なさろうとするのでござ~ますか?
その通りですよ。。。 まず、ウィキペディアの上の記述を読んで 卑弥子さんは執筆者が“龍馬神話”を書いたと思いますか?
いいえ。。。 たくさんの史実に基づいて書いたと思いますわ。
そうでしょう!。。。 ちゃんと歴史的事実に基づいて書いているのですよ。。。 決して明治維新以後の近代化を肯定するために、むりやり神話化して書いているようには見えない! あのねぇ~、もしですよ。。。、坂本龍馬が“流れ者”だとか“暴れん坊”だとか、単なる“武器商人”だとしたら、暗殺されるほどの人物じゃないということですよ!
つまり、坂本龍馬が そのように取るに足りない男だとしたら、誰もが無視するか、つまはじきにするだけで、誰も本気になって相手にしない、とデンマンさんは主張するのですか?
だってぇ、そうでしょう! 日本には昔から“馬鹿を相手にするな!”という格言があるのですよ!
でも。。。、でも。。。、その格言は、龍馬の暗殺は関係ないと思いますわァ~。。。
もちろん、関係ありますよ!。。。 暗殺すれば、いずれ警察のご厄介になって、悪くすれば死刑ですよ。。。 そのような身の危険まで冒して“流れ者”だとか“暴れん坊”を相手する者こそ 大ばか者ですよ!
要するに、坂本龍馬が暗殺されたのは伊藤博文が暗殺されたように、その人物は一国をもコントロールするような重要な人物だった、とデンマンさんは言うのですか?
当然でしょう!。。。 暗殺されるからには、その理由がある。。。 暗殺する場合、その暗殺に関わる者、あるいはその黒幕には重要な動機がある!。。。 命の危険まで冒すだけの重要な動機があるのですよ。
その動機とは、いったいどのようなモノだったのでござ~ますかァ~?
つまり、坂本龍馬がいなくなって誰が一番得をするのか? それを突き止めるのが先決ですよ!
当時、坂本龍馬がいなくなると誰が一番得をするのでござ~ますか?
だから、それをこれから説明するわけですよ。。。 その前に、江藤新平の略歴も読んでください。
江藤新平
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天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)
江藤 新平は日本の武士(佐賀藩士)、政治家。
幼名は恒太郎・又蔵。
朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。
「維新の十傑」、「佐賀の七賢人」。
文部大輔、左院副議長、司法省が設置されると明治5年(1872年)には司法卿、参議と数々の役職を歴任。
その間に学制の基礎固め・四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進。
特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。
政府内における急進的な民権論者であり「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。
また官吏の汚職に厳しく新政府で大きな力を持っていた長州閥の山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及、予算を巡る対立も絡み2人を一時的に辞職に追い込んだ。
だが、その一方で英仏を範とする西欧的な三権分立の導入を進める江藤に対して行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持ちプロイセン王国(後のドイツ帝国)を範とする政府内の保守派からは激しく非難された。
また急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省の井上馨との確執を招いた。
明治6年(1873年)には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に10月24日に下野。
明治7年(1874年)1月10日に愛国公党を結成し1月12日に民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意する。
大隈・板垣・後藤らは江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破し慰留の説得を試みる。
しかし江藤はこれには全く耳を貸さず1月13日に船便で九州へ向かう。
江藤は直ぐには佐賀へ入らず2月2日、長崎の深堀に着きしばらく様子を見ることになる。
この一方、大久保は江藤の離京の知らせを知った1月13日には佐賀討伐のための総帥として宮中に参内し、2月5日には佐賀に対する追討令を受けている。
佐賀の乱
2月11日、江藤は佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談を行い2月12日、佐賀征韓党首領として擁立された。
そして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を計画する。
2月16日夜、憂国党が武装蜂起し士族反乱である佐賀の乱(佐賀戦争)が勃発する。
佐賀軍は県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村通俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃、その約半数に損害を与えて遁走させた。
大久保利通の直卒する東京、大阪の鎮台部隊が陸続と九州に到着すると、佐賀軍は福岡との県境へ前進して、これら新手の政府軍部隊を迎え撃った。
政府軍は、朝日山方面へ野津鎮雄少将の部隊を、三瀬峠付近へは山田顕義少将の部隊を前進させた。
朝日山方面は激戦の末政府軍に突破されるが、三瀬峠方面では終始佐賀軍が優勢に戦いを進めた。
また朝日山を突破した政府軍も佐賀県東部の中原付近で再び佐賀軍の激しい抵抗にあい、壊滅寸前まで追い込まれている。
しかし、政府軍は司令官の野津鎮雄自らが先頭に立って士卒を大いに励まし戦い辛うじて勝利する。
この後も田手、境原で激戦が展開されるが政府軍の強力な火力の前に佐賀軍は敗走する。
江藤は征韓党を解散して逃亡し、3月1日に鹿児島鰻温泉の福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。
続いて3月25日、高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった。
このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。
しかしその途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。
手配写真が出回っていたために速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は江藤自身が明治5年(1872年)に確立したもので、皮肉にも制定者の江藤本人が被適用者第1号となった。
4月8日、江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌の最初から死刑ありきの暗黒裁判ともいうべき不当な裁判によって裁かれることとなった。
4月13日に河野により除族の上、梟首の刑を申し渡され、その日の夕方に嘉瀬刑場において処刑された。
判決を受けたとき「裁判長、私は」と言って反論しようとして立ち上がろうとしたが、それを止めようとした刑吏に縄を引かれ転んだため、この姿に対して「気が動転し腰を抜かした」と悪意ある解釈を受けた。
その後、江藤の首は嘉瀬川から4km離れた千人塚で梟首された。
大久保利通が撮影させた獄門に処せられた江藤新平の画像。
逸話
明治政府に仕えていた頃、40人ほどの書生の面倒を見ていたといわれ、そのため、死後に借金が残った。
江藤が出した意見書は非常に画期的で民主的である。
その代表として「国の富強の元は国民の安堵にあり」という意見書の一文がある。
江藤が処刑された後、佐賀では「江藤新平さんの墓に参拝すると百災ことごとく去る。」と城下の人々にいわれ、参拝客が多かった。
そのため、県庁が反乱の萌芽を恐れ柵を設けて参拝を禁止した。従って、夜間に参拝する者がいたという。
出典: 「江藤新平」
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なんで江藤新平を持ち出してきたのでござ~ますか?
江藤新平が消されたのは大久保利通によるものですよ。 大隈・板垣・後藤らは江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破し慰留の説得を試みる。。。 でも、江藤は大久保と対決するつもりだった。。。 それで佐賀に帰ったのです。
つまり。。、つまり。。。、坂本龍馬の暗殺の黒幕は大久保利通だ、とデンマンさんは断定するのでござ~ますか?
そうですよ。。。 坂本龍馬と江藤新平はどちらかといえば、民主主義・共和主義をよりよく理解している人物だった。。。 だから、保守派には憎まれた。。。 大久保利通は保守派の中でも特に権力志向の強い人物で、自分が“お山の大将”にならないと気がすまない人だった。
そうなのでござ~ますか?
“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”と言うけれど、大久保利通は徹底的に江藤新平を憎んだ。。。 “死人に鞭(ムチ)打つ”ほどだった。 もちろん、鞭は打たなかったけれど、それほど憎んだ。 だから、大久保利通が撮影させた獄門に処せられた江藤新平の写真がいまだに伝わっている。
あらっ。。。 そうなのでござ~ますか?
見たかったら、次のリンクをクリックしてみてください。
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『大久保利通が撮影させた
江藤新平の獄門首』 (別窓)
板垣は江藤とも懇意にしていたけれど、江藤よりも坂本龍馬の死をより惜しんだ。。。 つまり、それほど坂本龍馬という人物は大久保利通の先を見ていた人物だった。。。 だから、大久保に恨まれて暗殺されてしまった。
でも。。。、でも。。。、その証拠は。。。?
状況証拠ならばありますよ!
紀尾井坂の変
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紀尾井坂の変(きおいざかのへん)は、1878年(明治11年)5月14日に、内務卿大久保利通が東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷)で不平士族6名によって暗殺された事件。
「紀尾井坂事件」「大久保利通暗殺事件」ともいう。
実行犯は石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名から成る。
その中でも特に中心的存在であるのが島田一郎である。
島田は加賀藩の足軽として第一次長州征伐、戊辰戦争に参加しており、明治維新後も軍人としての経歴を歩んでいたが、征韓論に共鳴しており、明治六年政変で西郷隆盛が下野したことに憤激して以後、国事に奔走することになる。
長は1874年(明治7年)6月に、台湾出兵について西郷、桐野利秋の見解を聞きに杉村(寛)、陸と鹿児島入りしている。
長は半年ほど鹿児島に滞在し私学校に留学している。
長は1876年(明治9年)にも鹿児島入りして桐野らと旧交を温めている。
長が帰県した10月には神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族反乱が相次ぎ、島田も金沢で挙兵計画に奔走するが失敗。
さらに翌1877年(明治10年)の西南戦争では、島田と長が協力して挙兵計画に奔走したが、周囲の説得に苦慮している間に、4月に政府軍が熊本城に入城したとの情報を得て、勝敗は決したと計画を中止した。
この後、島田らは高官暗殺に方針を変更する。
唯一の島根県人である浅井は西南戦争当時警視庁の巡査であり警視隊に属して従軍し、1877年(明治10年)8月に東京に凱旋していたが、禁令を犯して1878年(明治11年)2月に免職となり、3月に島田らの暗殺計画を知って計画に加わった。
彼らの暗殺計画は複数のルートを経て、当時の警察のトップである大警視川路利良の耳にも入っていたが川路は「石川県人に何ができるか」と相手にしなかった。
島田らが大久保暗殺時に持参していた斬奸状は、4月下旬に島田から依頼されて陸が起草したものである。そこでは、有司専制の罪として、以下の5罪を挙げている。
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大久保利通
1. 国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。
2. 法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。
3. 不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。
4. 国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。
5. 外国との条約改正を遂行せず、国威を貶めている。
斬奸状に記された「国を思う志士」とは、恐らく西郷隆盛・前原一誠・江藤新平らを指していたのだと思われる。
大久保が彼らを排斥したという指摘から、薩摩・鹿児島県人からは「西郷どんの敵」とみなされ、現在でも一部の保守層からも嫌われていると思われがちだが、実際は立憲制や国会開設に積極的だったことで、右派でも左派でもない、ほぼ中道をいく政治家だったという(出典不明)。
出典: 「紀尾井坂の変」
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島田らが大久保暗殺時に持参していた斬奸状には国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こしたと書いてある! この斬奸状に記された「国を思う志士」とは、恐らく西郷隆盛・前原一誠・江藤新平らを指していたと書いてあるけれど、当然、坂本龍馬も含まれているのですよ。。。 島田一郎たちは、その事も知っていたのです。
マジで。。。?
あのねぇ~、昔の人は言いましたよ。。。 “術を弄する者は術に溺れる”と。。。 かつて、大隈・板垣・後藤らは江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破した。。。 大久保は“術を弄する者”だったのです。。。
それで、島田一郎らの報復を受けたのでござ~ますか?
そういうことです。。。 悪い事はいつかはバレるのですよ。。。 “策士策に溺れる”のですよ!
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