田原総一郎と出版業界 (PART 1)
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デンマンさん。。。、今日はクラシック鑑賞ではないのですかァ~?
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ちょっと違うのだよ。。。
それなのに、どういうわけでオイラをお呼びになったのですかァ~?
オマエは不満なのォ~。。。?
いいえ。。。 別に不満じゃないですけれど、これでもオイラは忙しい身の上なのですよ。。。 気まぐれに呼びださないで欲しいのです。。。
80歳を過ぎたオマエが、どういうわけで忙しい身の上なのォ~?
そんなことよりも、まずオイラの質問に答えることが先決ですよう! んもおおおォ~!
分かったよう。。。 田原総一郎さんは早稲田大学でオマエと同窓なのだよ。。。
確かに大学は同じですけれど、学部は違いますよ。。。 田原さんは滋賀県立彦根東高等学校を卒業すると、作家を志して上京するのです。。。
あれっ。。。 オマエは、けっこう詳しいねぇ~。。。
田原さんは日本交通公社(現JTB)で働きながら早稲田大学第二文学部日本文学科(夜学)に通い始めるのです。。。
ほおォ~。。。 作家になろうとしていたんだ。。。
そうなのです。。。 ところが、文学賞に何度か応募したにもかかわらず箸にも棒にもかからない。。。 さらに同人誌の先輩に才能がないと二、三度「宣告」を受けたらしい。。。 そんなことで、意気消沈していたところで、同世代の石原慎太郎・大江健三郎の作品を読んで、「これはダメだ、全く敵わない」と作家を目指すことを断念したのですよ。。。
マジで。。。? それで。。。?
それで、志望をジャーナリストに切り替え、3年間、ほとんど通っていなかった二文を辞めて、1956年早稲田大学第一文学部史学科に再入学し、1960年に卒業したのです。。。
。。。で、オマエは。。。?
オイラは、東京生まれ、東京育ちですよ。。。 早稲田大学理工学部数学科を優秀な成績で卒後して、ソフトウェア会社の課長になって、それから心の優しいきれいな家内と結婚してカナダに移住してトロントで暮らし始めたのです。。。
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うん、うん、うん。。。 そうだった。。。 そうだった。。。 オマエは、影の薄いブ男だったけれど、奥さんは心の優しい きれいな人だったよゥ。。。
オイラはデンマンさんとは会いたくなかったのですけれど、海外協力事業団のオフィスから電話がかかってきて、ソフトウェアの仕事を探している人物がいるので、会ってトロントの就職状況などを説明してあげて欲しいと言うので、仕方なく会ったのですよ。。。
うん、うん、うん、そうだった。。。 そうだった。。。 心の優しいきれいな奥さんにも会ったのだよ! うしししししし。。。
デンマンさん! そのような下卑(げび)た笑いを浮かべないでください!
下卑てないだろう! オマエの奥さんが心の優しいきれいな人だと認めてあげているんじゃないかア!
そんなことより、どういうわけで田原さんを持ち出してきたのですか?
あのさァ~、バンクーバー市立図書館で田原さんの本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのだよ。。。
私が伝えたいこと
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1945年(昭和20年)、小学校5年生の夏、8月15日に太平洋戦争の終戦を迎えました。
それまで「この戦争は正義のための戦争だから、君たちは正義のために死ね」と教えられましたが、終戦後の2学期になると「この戦争は悪い戦争だった。戦争は悪である。もし戦争が起きそうになったら、体を張って戦え」と教えられるようになりました。
そして高校1年生になったころに、朝鮮戦争が起きました。
小学校時代に「君たちは戦争が起きたら、体を張って反対しろ」といわれたので、私たちは「戦争反対!朝鮮戦争反対!」と大きな声で反対しました。
すると、先生たちから「お前ら、共産党か」と言われたのです。
このとき共産党員たちは追放されていました。
つまり悪い党ということになったのです。
私たちは混乱しました。
何を信じたらいいのか迷いに迷いました。
こういった衝撃的なことを少年時代に体験したのは、私たちが最後の世代になります。
この混乱した時代に起きたことををありのまま伝えることによって、皆さんが、これからの時代を生きてゆくうえで、自分の目で見たこと、体験したことをもとに、正しい判断をし、日本の未来のあるべき姿を考えてもらえればと願っています。
(13-14ページ)
全国的に工場誘致のために開発が進み、その各地で住民漁民たちの反対運動が展開されていました。
そのことを改めて、国土開発の中軸的な仕掛け人だった下河辺敦(しもこうべ あつし)に確かめました。
「確かに私たちは水俣病や四日市ゼンソコクのことは知っていましたが、それはその地域の特殊事情だというとらえ方が一般的でした。
鹿島や九州の不知火(しらぬい)などで、公害を引き起こすなという声が起きると、私たちはむしろ積極的に住民の人々の話を開きに行った。
どんな弊害、危険が生じるのか、私たちのほうこそ具体的につかみたくて、正直に言うと住民運動、反対運動にむしろ期待したのですよ」
(138ページ)
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
『100分でわかる!ホントはこうだった日本現代史②』
日米安保条約からロッキード疑獄
著者: 田原総一郎
2013年3月5日 第1刷
発行所: 株式会社ポプラ社
私が伝えたいこと
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1945年(昭和20年)、小学校5年生の夏、8月15日に太平洋戦争の終戦を迎えました。
それまで「この戦争は正義のための戦争だから、君たちは正義のために死ね」と教えられましたが、終戦後の2学期になると「この戦争は悪い戦争だった。戦争は悪である。もし戦争が起きそうになったら、体を張って戦え」と教えられるようになりました。
そして高校1年生になったころに、朝鮮戦争が起きました。
小学校時代に「君たちは戦争が起きたら、体を張って反対しろ」といわれたので、私たちは「戦争反対!朝鮮戦争反対!」と大きな声で反対しました。
すると、先生たちから「お前ら、共産党か」と言われたのです。
このとき共産党員たちは追放されていました。
つまり悪い党ということになったのです。
私たちは混乱しました。
何を信じたらいいのか迷いに迷いました。
こういった衝撃的なことを少年時代に体験したのは、私たちが最後の世代になります。
この混乱した時代に起きたことををありのまま伝えることによって、皆さんが、これからの時代を生きてゆくうえで、自分の目で見たこと、体験したことをもとに、正しい判断をし、日本の未来のあるべき姿を考えてもらえればと願っています。
(11-12ページ)
1996年(平成8年)1月5日、村山首相が突然辞意を表明しました。
1996年1月11日、自民党で平成研という派閥に属するの橋本龍太郎が、82代、53人目の首相に選ばれました。
(102ページ)
(2002年1月)26日にある外務省のOBが田中(眞紀子)外相に呼ばれました。
そして田中は、
「大臣と次官が、いつまでも『言った』『言わない』を続けているわけにはいかないので、28日の予算委員会で外相辞任を表明したい。 そこで辞任表明の原稿をつくってほしい」
と外務省のOBに頼んだのでした。
一応、原稿はできあがり、私もその原稿を見ています。
ところが27日の「サンデープロジェクト」のあと、午後、田中外相から外務省OBに電話がかかってきました。
「大西健丞の話を開いて考え方が変わった。 辞任しないで月曜日から戦う。 一番悪い鈴木宗男が無傷で残るのは許せない」
と、気合の入った語調で言ったそうです。
(151ページ)
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
『100分でわかる!ホントはこうだった日本現代史③』
中曽根政権から豊かな時代の崩壊
著者: 田原総一郎
2013年4月 第1刷
発行所: 株式会社ポプラ社
つまり、田原さんが書いた上の2冊の本を読んで間違いを見つけたので、こうして長々と引用したのですかァ~?
そうだよう。。。 オマエは不満そうな目つきで僕を見てるねぇ~。。。
それってぇ、意地の悪いアラ探しではありませんかァ!
あのさァ~、僕は本は図書館で読むことにしているのだよ。。。 つまり、本屋では買わないことにしているのだよ!
デンマンさんは、見かけによらず、しみったれですねぇ~。。。 最近、ネットで情報をゲットする人が多くなって、本を買う人が少なくなっているのに、デンマンさんは本屋で本を買わずに、図書館で本を借りていると言うのですか?
そうだよう。。。
だから、日本の出版業界は喘(あえ)いでいるのですよう! 倒産したり、見切りをつけて業種を変えたところも出てきてますよ。。。
だから、その理由の一つをここで証拠として示したわけなんだよ。。。
つまり、田原さんの本の間違い、誤字・脱字が、出版業界の不振を招いた、とデンマンさんは言うのですか?
だから、そういう著者のいい加減さと、出版社が経費削減で校正係をバイトに任せているから、出版業界はダメになっているのだよ。。。 僕が、もし上の2冊の本を買っていたとしたら、出版社につき返して本代を返してもらうよ!
でも。。。、でも。。。、たった5つの間違いを発見しただけじゃありませんかァ!
あのさァ~、こまめに探せば、もっとあるかもしれないのだよ! 1度読んだだけで、5つも間違いがあるなんて、僕にとって初めての経験だよ! ポプラ社という出版社が出した本を僕は初めて読んだ! 調べてみたら次のような会社なのだよ!
ポプラ社
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株式会社 ポプラ社は、日本の出版社。
本社は東京都新宿区大京町に所在。
元偕成社の、編集長の久保田忠夫、営業担当の田中治夫らが独立して創業。
長きに渡り、山中峯太郎の〈名探偵ホームズ全集・全20巻・絶版〉、南洋一郎の〈怪盗ルパン全集・全30巻〉(現在はシリーズ怪盗ルパン・全20巻)、江戸川乱歩の〈少年探偵江戸川乱歩全集・全46巻、後半20巻は乱歩の大人向け作品を乱歩の弟子が子供向けに書き直したもの〉(現在はシリーズ少年探偵・全26巻)、那須正幹の〈ズッコケ三人組〉シリーズや原ゆたかの〈かいけつゾロリ〉シリーズ、ポプラ社文庫などの児童書を専門に出版してきたが、近年では成人を対象とした書籍にも幅を広げ、成功を収めている。
その他、児童向け漫画雑誌『月刊コミックブンブン』(旧称:プレコミックブンブン)を発行している。
プレコミックブンブン編集のため、2003年にマッグガーデンとの共同出資で編集プロダクション 株式会社ビープラスを設立、2005年に合弁を解消し、会社清算。
また2006年には玩具メーカー・タカラ(現・タカラトミー)の系列出版社であったジャイブを買収・子会社化している。
2005年には、日本で初めての心理学マガジン『月刊psikoプシコ』を創刊。
2008年4月5日に大人向けの文庫「ポプラ文庫」を創刊している。
出典: 「ポプラ社」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
結構、有名な会社ではありませんか!
僕が読んだ本は、たいてい「文藝春秋社」「講談社」「新潮社」「幻冬舎」……が出している本なのだよ。。。 これまでにも、僕の記事の中で本から、けっこうパッセージを引用しているのだけれど、僕の記憶する限り「ポプラ社」から出版された本を引用したためしがない!
【デンマン注:】
念とため調べてみたら1度だけ
『母という病』という記事の中でポプラ社から出版された『母という病』という本の中から小文を引用していました。
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上の説明を読むと、少子化で児童向けの本が売れなくなったので、大人向けの本に切り替えようとしているのだよ。。。 何とかして経営を立て直そうと、合弁を解消したり、玩具メーカー・タカラ(現・タカラトミー)の系列出版社であったジャイブを買収したりしているのだよ。。。
つまり、経営につまずいているということですか?
そうだろう。。。 それで、知名度のある田原さんに本を出してもらおうと頼み込んだに違いない。
ヒット商品にするつもりの本のシリーズが『100分でわかる!ホントはこうだった日本現代史』というわけですか?
それに違いないよ! それにもかかわらず、校正が不十分。。。 しかも、2冊の初めに出てくる私が伝えたいことという「はしがき」にあたる部分で、間違いを犯している。 The first impression is a lasting impression. という英語の諺があるけれど、出だしで間違いを見つけたら、読者は引いてしまうと思うよ。。。 僕は図書館で借りたから読み続けたけれど、本屋で立ち読みしたら、そういう本を絶対に買わないよ。。。
田原さんは見直ししなかったのでしょうか?
頼まれたので、イヤイヤながら「私は忙しいので、見直しできないから、あなたたちの責任で本を出して」ということにしたのだと思うのだよ。。。
しかし、それは無責任ではありませんか?
僕も、そう思うよ。。。
それで、最近の出版業界に活を入れるために、この記事を書く気になったのですか?
その通りだよ。。。 でも、オマエだってぇ、結構、無責任に本を出版しようとしたのだよ。。。
オイラが、何か不都合なことでもしでかしたのですか?
そうだよ。。。 ちょっと次の小文を読んでごらんよ!
6.2 Friedlich Kuhlau
家内のフルートの教師が、どんなに良い演奏で聴くよりは、自分でする方が楽しい、と言っていた。あたりまえではない。私は、といえば、以前にはそうだったのが、今はもう、自分の出す音に慣れすぎたのか、さしたる新鮮さを感じることが少なくなってしまった。そうした瑞々しい感覚を,今なお持っている人をうらやましく思ったのである。
船山隆は、アマチュアは、何人かが集まると、アンサンブルをして、楽しい時を過ごそうとするが、プロフェッショナルが集まっても、そういう事が起こる事は少ない、というようなことを言っていた。それに、誰であったか、私は忘れてしまったが、画家や小説家が集まると、自分の分野以外の話題に話が発展していくが、演奏家には、そうしたことが少ない、と言っていた。
一番の昔、<<Moderato Cantabile>>(Marguerite Duras(本名:Marguerite Donnadieu)監督、邦題:<<かくも長き不在>>)というフランス映画があった。nouveau roman の作家自身の作品である。その映画に流れる音楽が、A. Diabelliのsonatine中の<Moderato cantabile>である、と聞き及んだので、さっそく<Sonatinen Album II>を買ってきた。実は、私は、私のピアノの先生がAlbum IIはやらなくても良い、と言っていたので、それを所持していなかったのである。さて、と、<Andantino cantable>がある。次には、単純な<Moderato>があった。最後には<Allegro moderato>もあった。しかし、<Moderato Cantabile>が無かった。多分、<Andantino cantable>のことかも知れない、と疑いつつ楽譜を見て、弾いてみたけれど、映画の音楽とは違っていた。そこで、私は、次のレッスンの折に、先生に尋ねてみたのである。先生の返事は、あら、アンダンテ カンタービレはチャイコフスキーよ、であった。
二番の昔、私の次のピアノの先生に、W.A. Mozartの<<Klaviersonate in A-dur>>(K. 331)の終楽章のロンド主題は、行進曲には聴こえない、と話した時、あら、トルコ マーチのことね、と蓮っ葉な声が返ってきた。あの楽章は、<Rondo alla Turca>である。もっとも、rondo としてみたときには、悪く言えば奇妙、良く言えばuniqueな楽章ではあるが。
三番の昔、私の次の次のピアノの先生は、初めてのレッスンの折に、私が未だ<Czerny三十番>で四苦八苦しているのに、Mozartの<<Klaviersonate in G-dur>>(K. 283)を前の先生のもとで終わっていたという事実が、どうにも信じられない、と言った。その先生の前で、それを弾いて見せて、不承不承ではあったものの、とにかく納得させたのではあったが、次のレッスンでまた同じことを蒸し返したのである。そればかりではない。前の先生の悪口まで言ってのけたのである。彼女は、信じられないのではない。信じたくはないのである。新保満教授が言っていた。偏見を持っている人間は、その偏見に反する、或いはその偏見を覆す事実を、如何に眼の前に突きつけられても、自身の見解を修正しようとはしない、と。もっとも、これは、人種偏見についての記述ではあったが。
四番の昔、その先生は私を受け容れてくださった。この話は、少し端折っているが、実は、私にとっては七番目の先生であって、彼女には五年も教わった。
こういうことがあった。この先生は、種々の装飾音の奏法は、in principio, et nunc, et simper, et insaecula saeculorumで不変である、と信じていたふしがある。そして、私が、レッスン中、J.S. Bachを弾いているとき、装飾音に注意、忠告した。装飾音の解釈は、時代によっても異なるし、Bachの時代には、特にtrilloの弾き方は、それの附いている音符の前後、或いは上下(ときによる平行五度や八度を避ける為)によっても不変ではないのである。それでも、次のレッスンのときに、Bach自身が息子、Friedemannの為に書いた、あの有名な装飾音の一覧をお見せしたら、納得してくださった。生意気な生徒だ、と思ったかも知れないが。
ところで、そもそも、<Sonatinen Album>は、誰が編集したのであろうか。ある人が、その素朴にして当然な疑問を、知り合いのピアノ教師をしている女性に電話で尋ねてみたとのことである。相手の女性は<清らかな声>で、咲いながら、そんなことは、考えてみたこともなかった、と返事をした、とのことであった。微笑ましい話である。実は、私も、その疑問はもったのである。違いは、私は、その疑問をほったらかしにして調べもせず、誰かに尋ねることもしなかった処にある。それ故に、私は、彼のような人を尊敬するが、一方、私は、性格の悪い人間である。やはり、私は、考えてもみなかった、という、彼女の、その想像力の無さにに拘りを感じるからである(草子地:彼女が知らなかった事に対してではない)。これでは、Marie Antoinetteが、(国民に)パンが無かったらケイクを食べればいいじゃん、と言ったのと同質の無邪気さではないか。私は、単なる素描にしかすぎない楽譜というもの解読は、まさに、想像力の問題だと思っている。ピアノは、手で弾くのではない、耳でもない、想像力によってではないか。その想像力に欠ける<清らかさ>は、自身が教わったままに人に教えると言った、音楽をなす上での権威主義に底流では連なっている、と言ったら、言い過ぎか。 私が、プロフェッショナルに、プロフェッショナルの見識を求める故に、お金を払っている、と思っていたのは、間違いなのであろうか。
しかしながら、この<Sonatinen Album>(草子地:とりわけI。II はKuhlauの作品でもI には及ばない。)、によってF. Kuhlauのsonatinenが、現在まで保存、伝達されたことだけは幸いであった。
蛇足(コーダ):
いろいろと書いてきたが、私の思うことは、ただ一つ、音楽の先生は、せめて、子供が音楽を嫌いにならないように、と心掛けて欲しい、ということだけである。たくさんの演奏家が輩出している、などということは、言訳にはならない。彼らが、本当に音楽が好きで演奏しているかどうか、私には、おおいに疑問である。Czernyでも弾いていた方が、よっぽど似合う、というようなピアニストばかりではないか。
29-30ページ
『前奏曲集―私はアマチュアである-作品 1の2』より
うえの赤字にしたところが間違っているのだよ! Friedlich は Friedrichが正しい。。。 あたりまえではない は あたりまえではないか が正しい。。。 しかも、オマエの草稿には英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語が散らばっている。。。 仕方がないから、次のように再編集して僕の記事に引用したのだよ。。。
6.2 フリードリヒ・クーラウ
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(1786 – 1832)
家内のフルートの教師が、どんなに良い演奏で聴くよりは、自分でする方が楽しい、と言っていた。
あたりまえではないか。
私は、といえば、以前にはそうだったのが、今はもう、自分の出す音に慣れすぎたのか、さしたる新鮮さを感じることが少なくなってしまった。
そうした瑞々しい感覚を,今なお持っている人をうらやましく思ったのである。
船山隆は、アマチュアは、何人かが集まると、アンサンブルをして、楽しい時を過ごそうとするが、プロフェッショナルが集まっても、そういう事が起こる事は少ない、というようなことを言っていた。
それに、誰であったか、私は忘れてしまったが、画家や小説家が集まると、自分の分野以外の話題に話が発展していくが、演奏家には、そうしたことが少ない、と言っていた。
一番の昔、<<雨のしのび逢い>>(マルグリット・デュラス【本名:Marguerite Donnadieu】監督)というフランス映画があった。
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ヌーヴォー・ロマン(「新しい小説」)の作家自身の作品である。
その映画に流れる音楽が、アントン・ディアベリのソナチネ中の<モデラート・カンタービレ>である、と聞き及んだので、
さっそく<ソナチネアルバム 第2巻>を買ってきた。
実は、私は、私のピアノの先生がアルバム 第2巻はやらなくても良い、と言っていたので、それを所持していなかったのである。
さて、と、<アンダンテカンタービレ(歩くような速さで)>がある。
次には、単純な<モデラート(ほどよい速さで)>があった。
最後には<アレグロモデラート(穏やかに速く)>もあった。
しかし、<モデラート・カンタービレ>が無かった。
多分、<アンダンテカンタービレ(歩くような速さで)>のことかも知れない、と疑いつつ楽譜を見て、弾いてみたけれど、映画の音楽とは違っていた。
そこで、私は、次のレッスンの折に、先生に尋ねてみたのである。
先生の返事は、あら、アンダンテ カンタービレはチャイコフスキーよ、であった。
二番の昔、私の次のピアノの先生に、W.A.モーツァルトの<<ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調>>(K. 331)の終楽章のロンド主題は、行進曲には聴こえない、と話した時、あら、トルコ マーチのことね、と蓮っ葉な声が返ってきた。
あの楽章は、<トルコ風のロンド>である。
もっとも、ロンドとしてみたときには、悪く言えば奇妙、良く言えばユニークな楽章ではあるが。
三番の昔、私の次の次のピアノの先生は、初めてのレッスンの折に、私が未だ<ツェルニー30番>で四苦八苦しているのに……、
モーツァルトの<<ピアノソナタ第5番 ト長調>>(K. 283)を前の先生のもとで終わっていたという事実が、
どうにも信じられない、と言った。
その先生の前で、それを弾いて見せて、不承不承ではあったものの、とにかく納得させたのではあったが、次のレッスンでまた同じことを蒸し返したのである。
そればかりではない。
前の先生の悪口まで言ってのけたのである。
彼女は、信じられないのではない。
信じたくはないのである。
新保満教授が言っていた。
偏見を持っている人間は、その偏見に反する、或いはその偏見を覆す事実を、如何に眼の前に突きつけられても、自身の見解を修正しようとはしない、と。
もっとも、これは、人種偏見についての記述ではあったが。
四番の昔、その先生は私を受け容れてくださった。
この話は、少し端折っているが、実は、私にとっては七番目の先生であって、彼女には五年も教わった。
こういうことがあった。
この先生は、種々の装飾音の奏法は、未生におけるごとく、今も、いつも、極みまで不変である、と信じていたふしがある。
そして、私が、レッスン中、バッハを弾いているとき、装飾音に注意、忠告した。
装飾音の解釈は、時代によっても異なるし、バッハの時代には、特にトリル(顫音[せんおん])の弾き方は、それの附いている音符の前後、或いは上下(ときによる平行五度や八度を避ける為)によっても不変ではないのである。
それでも、次のレッスンのときに、バッハ自身が息子、フリーデマンの為に書いた、あの有名な装飾音の一覧をお見せしたら、納得してくださった。
生意気な生徒だ、と思ったかも知れないが。
ところで、そもそも、<ソナチネアルバム>は、誰が編集したのであろうか。
ある人が、その素朴にして当然な疑問を、知り合いのピアノ教師をしている女性に電話で尋ねてみたとのことである。
相手の女性は<清らかな声>で、咲いながら、そんなことは、考えてみたこともなかった、と返事をした、とのことであった。
微笑ましい話である。
実は、私も、その疑問はもったのである。
違いは、私は、その疑問をほったらかしにして調べもせず、誰かに尋ねることもしなかった処にある。
それ故に、私は、彼のような人を尊敬するが、一方、私は、性格の悪い人間である。
やはり、私は、考えてもみなかった、という、彼女の、その想像力の無さにに拘りを感じるからである(草子地:彼女が知らなかった事に対してではない)。
これでは、マリー・アントワネットが、(国民に)パンが無かったらケイクを食べればいいじゃん、と言ったのと同質の無邪気さではないか。
私は、単なる素描にしかすぎない楽譜というもの解読は、まさに、想像力の問題だと思っている。
ピアノは、手で弾くのではない、耳でもない、想像力によってではないか。
その想像力に欠ける<清らかさ>は、自身が教わったままに人に教えると言った、音楽をなす上での権威主義に底流では連なっている、と言ったら、言い過ぎか。
私が、プロフェッショナルに、プロフェッショナルの見識を求める故に、お金を払っている、と思っていたのは、間違いなのであろうか。
しかしながら、この<ソナチネアルバム>(草子地:とりわけI。 II はフリードリヒ・クーラウの作品でもI には及ばない。)、によってフリードリヒ・クーラウのソナチネが、現在まで保存、伝達されたことだけは幸いであった。
蛇足(コーダ):
いろいろと書いてきたが、私の思うことは、ただ一つ、音楽の先生は、せめて、子供が音楽を嫌いにならないように、と心掛けて欲しい、ということだけである。
たくさんの演奏家が輩出している、などということは、言訳にはならない。
彼らが、本当に音楽が好きで演奏しているかどうか、私には、おおいに疑問である。
ツェルニーでも弾いていた方が、よっぽど似合う、というようなピアニストばかりではないか。
『クラシック鑑賞 12』より
(2018年4月5日)
なるほどォ~。。。 でも。。。、でも。。。、人間は誰もが完璧ではありませんからねぇ~。。。 たまには間違いをしでかしますよ。。。
でもさァ~、本を出版しようと思っている著者は、本を買ってくれる読者に責任があるのだよ。。。 それが、おろそかになっているから、出版業界は、ますます不振に落ち込んでいるのだよ!
ところで、デンマンさんは間違いをおかさないのですか?
もちろん、僕だって、誤字・脱字をやってしまうことがあるよ。。。 でも、最善を尽くして、誤字・脱字がないように少なくとも3度は読み返し、1日置いたあとで、もう一度読み返すようにしているのだよ。。。
マジで。。。?
そうだよ。。。 それでも、誤字・脱字を見落とすことがある。。。
要するに、人間は完璧ではないということですねぇ~。。。
そういうことだよ。。。 だから、最善を尽くすという心構えで、僕は草稿を書いているのだよ。。。
この記事も、そうして書き上げたのですか?
そうだよ。。。 間違いを見つけたら、ぜひコメントに書いて欲しい。。。
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