夢とロマンの横浜散歩(PART 2 of 4)
BankART1929
BankART1929は、横浜市が推進する、歴史的建造物や港湾施設等を文化芸術に活用しながら、都心部再生の起点にしていこうとする文化芸術創造の実験プログラムのひとつである。
BankART(バンカート)は旧第一銀行横浜支店(BankART1929 Yokohama)と旧富士銀行横浜支店(BankART1929 馬車道)ふたつの建物を芸術文化に利用するという意味を込めた造語。
ちなみにその舞台となる旧第一銀行と旧富士銀行の建物はどちらも1929年に建てられた。
世界恐慌の始まったこの年はニューヨーク近代美術館(MOMA)が設立された年。
どちらの建物も古代ローマのトスカナ地方独自の建築物の様式「トスカナ式」でつくられている。
2003年3月に実験事業としてスタートし、2006年度からは本格事業へと移行。
旧第一銀行を活用した「BankART 1929 Yokohama」と旧富士銀行横浜支店(BankART1929 馬車道)の二カ所を拠点(スペース)として活動していたが、2004年12月31日に「BankART1929 馬車道」の活用は終了、2009年3月31日に「BankART 1929 Yokohama」の活用は終了。
現在は日本郵船の湾岸倉庫を利用した「BankART Studio NYK」を主な拠点として活動を行っている。
また、2006年7月には主にアーティストインレジデンス機能をもつBankART桜荘がオープンしている(2010年4月30日、活動終了)。
BankART妻有は、2006年の大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレに出品されたBankARTが運営(管理)している農家である。
BankART1929ではアートイベントの企画・運営事業以外にも様々な取り組みを行っている。
範囲はアート、建築、パフォーマンス、音楽、会議他あらゆるジャンルに渡る。
スタジオ、スクール、出版、カフェパブ、ブックショップ、コンテンツ制作をベースにしながら、主催、コーディネート事業等、年間650本以上の事業を活発に行っている。
2ヶ月単位でアーティストに制作スペースを貸し出し、2週間に一度程度の一般公開を行っている「アーティストインスタジオ」や、2ヶ月で8コマを基本単位に各ジャンルの第一線で活躍する人たちを講師に迎えて開催している「BankARTスクール」。
その他、アート関係の本やスクール講師の著作などの芸術書籍を扱うBankARTショップの運営に加え、展覧会の内容を出版事業へと展開したり、横浜の地ビールメーカー「横浜ビール」とBankARTを利用するアーティストのタイアップによるオリジナルブランドの開発も行うなど、コンテンツ制作事業も行っている。
これらの事業の売り上げはBankART1929の運営資金として活用されている。
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
なぜBankART1929なのですか?
ローマに居るような気分を味わったのですよ。 バンクーバー図書館はローマのコロシアムを思い出させる建物ですよう。
分かるでしょう? BankART1929は比較的小さな建物なんだけれど、壮大なバルコニーと4本のトスカナ式の列柱の迫力はコロシアムにも匹敵しますよ。
。。。で、中に入ってみたのですか?
もちろんですよ。
こうして仲良く小百合さんとコーヒーを飲んだのですよ。
中にはコーヒーショップがあるのですか?
いや、ありません。 セルフサービスのコーヒーカウンターがあるだけです。
無料ですか?
もちろん二人で200円のカンパをしましたよう。 うししししし。。。
その後、どこに行かれたのですか?
横浜へ言って山手を見ないでは帰れないので、小百合さんと自家製のケーキを食べようと「えの木てい」へ行ったのですよう。
日に照り映える真っ白い外壁。 赤い洋瓦の屋根。 ワインカラーの軒周り。 窓縁とのコントラスト。 テラスに小百合さんと座りながら自家製ケーキを食べて紅茶を楽しんで僕は満足しましたよう。
デンマンさんは何が何でもロマンチックに演出しないと気がすまないのですわね。
そう思いますか?
ちょっとわざとらしいですわ。
あのねぇ、夢を見る時ぐらい僕の自由にさせてくださいよう。 うしししし。。。 それで、さらにロマンチックに盛り上げようと僕は小百合さんを中区日本大通にある「Alte Liebe(古い恋人)」へ連れて行ったのですよ。
あらっ。。。なんだか素敵なお店ですわね。
そうでしょう?!。。。クラシック音楽を生(なま)で聴けるのですよ。
デンマンさんは、いつからクラシック音楽にハマッタのですか?
いや。。。別にクラシック音楽にハマッタわけではないけれど、たまには小百合さんと格調高く横浜でクラシック音楽を聴きながらディナーを楽しみたいなあああァ、と思ったわけですよ。 うししししし。。。
あらっ。。。マジでクラシック音楽を聴かせるのですか?
もちろんですよ。 室内はウィーンの工房が手がけたというインテリアで占められているのですよう。 なんとなくオーストリアの音楽の都に居るような気分に浸れるのです。 しかも、ヨーロッパから招いた音楽家たちによる生演奏ですよ。
これがデンマンさんの夢のメイン・イヴェントなのですか?
いや。。。違うのですよう。 次の写真を見てください。
あらっ。。。学校のようですわね?
そうです。 山手にある「横浜共立学園」の本校舎ですよ。
どうして学校などを持ち出してきたのですか?
あのねぇ~、この校舎を設計したのが、なんとヴォーリズさんなのですよ。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
William Merrell Vories
1880年10月28日 - 1964年5月7日
アメリカのカンザス州レブンワース生まれ。
日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家。
建築家でありながら、ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立者の一人としてメンソレータム(現メンターム)を広く日本に普及させた実業家でもある。
そしてまたYMCA活動を通し、また「近江ミッション」を設立し、信徒の立場で熱心にプロテスタントの伝道に従事した。
よく「宣教師」と紹介されるが、彼はプロの牧師ではなくキリスト教徒伝道者である。
讃美歌などの作詞作曲を手がけ、ハモンドオルガンを日本に紹介するなど、音楽についての造詣も深かった。
英語教師として来日後、日本各地で西洋建築の設計を数多く手懸けた。
学校、教会、YMCA、病院、百貨店、住宅など、その種類も様式も多彩である。
1941年(昭和16年)に日本に帰化してからは、華族の一柳末徳子爵の令嬢満喜子夫人の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗った。
「米来留」とは米国より来りて留まるという洒落である。
近江商人発祥地である滋賀県八幡(現:近江八幡市)を拠点に精力的に活動したことから、「青い目の近江商人」と称された。
また太平洋戦争終戦直後、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーと近衛文麿との仲介工作に尽力したことから、「天皇を守ったアメリカ人」とも称される。
略歴
1880年 - 米国カンザス州レブンワースで生まれる。
1802年 - この頃から教会の礼拝に出席するようになり、後日、幼児洗礼を受ける。
1900年 - イーストデンバー高校を卒業。コロラドカレッジ理工系課程に入学し、YMCA活動を開始する。
当初は建築家志望でマサチューセッツ工科大学への入学が決定していたが、家庭の経済状況を考えて近くのコロラドカレッジに入学している。
1905年 - 滋賀県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)の英語科教師として来日する。
1919年 - 子爵令嬢一柳満喜子と結婚。結婚式は自らが設計した明治学院の礼拝堂で挙げた。
1920年 - ヴォーリズ合名会社を解散し「W・M・ヴォーリズ建築事務所」および「近江セールズ株式会社」を設立する。
1941年 - 日本国籍を取得し、一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と改名。ヴォーリズ建築事務所を一柳建築事務所と改称する。
1945年 - マッカーサーと近衛文麿との仲介工作をおこなう。
1951年 - 藍綬褒章を受章(社会公共事業に対する功績による)。また、「失敗者の自叙伝」を「湖畔の声」に連載(1957年まで)。
1957年 - くも膜下出血のため、軽井沢で倒れ、療養生活に入る。
1958年 - 近江八幡市名誉市民第1号に選ばれる。
1961年 - 黄綬褒章を受章(建築業界における功績による)。
1964年 - 近江八幡市慈恩寺町元11の自邸(現ヴォーリズ記念館)2階の自室にて永眠。83歳。近江八幡市民葬および近江兄弟社葬の合同葬が行われ、遺骨は近江ミッションの納骨堂である恒春園(近江八幡市北之庄町)に収められる。没後、正五位に叙され、勲三等瑞宝章を受章する。
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あらっ。。。もしかして「睡鳩荘」を設計したヴォーリズさんと同一人物ですか?
そうですよ。 偶然と言えば偶然だけれど。。。偶然と言うには。。。
やっぱり、偶然ですわよう。
小百合さんは冷静に考えすぎるのですよう。。。もう少しロマンチックに考えてみたらどうですか?
私は専業主婦ですから、どうしても毎日の日常茶飯事に追い回されてロマンチックどころではありませんわ。
だから、惰性の日常から自分を見つめ直す意味でも夢を見るのですよう。
デンマンさんのようにですか?
そうです。 うしししし。。。そう言っても小百合さんはすぐに夢を見るわけにも行かないだろうから、小百合さんのために懐かしいメールを持ち出しますよ。 読んでみてください。
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