萌える恋歌の裏に(PART 2 OF 4)
やわ肌の
あつき血汐に
ふれも見で
さびしからずや
道を説く君
by 与謝野晶子
『熱き肌』に掲載
(2010年3月12日)
こないな歌が恋の情熱を訴える歌やと、あんさんは言わはるのォ?
そうや。。。これならば、女の身を焦がすような恋の情熱が男の胸にもひしひしと伝わってくるねん。
そうやろか?
そうに決まってるやん。 めれちゃんかて次のような萌え萌えで、ムンムン、ムレムレの歌を詠んでいたやんかア!
くちづけ
罪深き
ことと知りつつ
この夜も
きみのくちづけ
もとめて止まぬ
by めれんげ
2009.01.14 Wednesday 14:21
『即興の詩 冬枯れ』より
『めれんげさんと六条の御息所』に掲載
(2010年2月12日)
あんさんは、わたしの詠んだ歌なら何でも保存しておきはるのォ〜?
そうやァ。。。あきまへんか? うししししし。。。
つまり、「焼き滅ぼしてくれるような天の火が欲しい」なんて詠むと、男は身を引いてしまうの?
わてならば、「焼き滅ぼ」すという語句を見てドン引きしてしまうでぇ〜。。。ちょっと怖(こわ)すぎるやん。。。
そうやろか?。。。ほんならば、狭野弟上娘子は、どないなつもりで上の歌を詠んだと、あんさんは言わはるのォ〜?
そやから本文中にも次のように書いてあるやん。
何らかの歴史的事実に基づいて
作られた虚構の歌で、
実際にやり取りされたものではない、
という可能性もある
そやけど、歴史的事実ってぇ何やのォ?
そやから、わては、その歴史的事実を突き止めようとしたのやがな。
そいでぇ、突き止めはったん?
そうや。
どないして。。。?
中臣宅守は738(天平10)年前後に罪を得て越前(現在の福井県)に流されたのや。 そやから、その時期の事件を調べたのやがな。
735(天平7)年
平城京にきた新羅からの使いに入国の目的を問うたところ新羅は国の名を改めて王城国といったので帰国させている。
737(天平9)年
遣新羅使が新羅に渡した国書を慣例を無視して受け取りを拒まれた事態が報告され、使節を送ってその理由を問うべきか兵を出して征伐するべきかという意見が奏上された。
738(天平10)年前後
中臣宅守(なかとみのやかもり)が罪を得て越前(現在の福井県)に流される。 配流の時期については明確でない。
740(天平12)年
藤原広嗣(ひろつぐ)の乱。 天平9年(737年)朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去した。
代って政治を担ったのが橘諸兄であり、また唐から帰国した吉備真備と玄?が重用されるようになり、藤原氏の勢力は大きく後退した。
天平10年(738年)藤原宇合の長男・広嗣(藤原式家)は大養徳(大和)守から大宰少弐に任じられ、大宰府に赴任した。広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いた。
天平12年(740年)8月29日、広嗣は政治を批判し、吉備真備と玄?の処分を求める上表を送った。
9月3日、広嗣が挙兵したとの飛駅が都にもたらされる。聖武天皇は大野東人を大将軍に任じて節刀を授け、副将軍には紀飯麻呂が任じられた。
東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道の五道の軍1万7,000人を動員するよう命じた。
乱の鎮圧の報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇は突如関東に下ると言い出し都を出てしまった。聖武天皇は伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国を巡り恭仁京(山城国)に移った。その後も難波京へ移り、また平城京へ還って、と遷都を繰り返すようになる。
遠い九州で起きた広嗣の乱を聖武天皇が極度に恐れたためであったとされる。
天平13年(741年)1月、乱の処分が決定し、死罪16人、没官5人、流罪47人、徒罪32人、杖罪177人であった。藤原式家の広嗣の弟たちも多くが縁坐して流罪に処された。
744(天平16)年
安積親王が、藤原仲麻呂に暗殺される。
745(天平17)年
反藤原政権の一角を担っていた玄?が九州に左遷させられた。 藤原仲麻呂は、次第に反藤原派を圧迫してゆく。
746(天平18)年
宮内少輔だった大伴家持は越中の守に任じられ越中国に向かった。
763(天平宝字18)年
藤原良嗣(よしつぐ)の乱。 藤原仲麻呂は息子3人を参議に任じ専横を極めた。
良嗣は冷遇され恨みを抱いた。
そこで佐伯毛人(けみし)、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)、大伴家持と共謀し、藤原仲麻呂を殺そうと企てたという密告があって、みな捕まってしまった。
良嗣は取調べを受けて、首謀者は自分一人だけで他の者は関係ないと主張した。
この後、大伴家持は薩摩守に任じられ(左遷され)都から遠ざけられた。
このようにして調べていって気がついたのやけれど、情熱的な狭野弟上娘子の相手である中臣宅守が関係している事件というのは無いねん。 ところが万葉集の編者と言われる大伴家持が関係している事件があるのやがな。
それが藤原良嗣(よしつぐ)の乱やと、あんさんは言わはるの?
そうやァ。
そやかて、その事件は中臣宅守さんと関係あらへん。
あのなァ〜、『万葉集』は実は、単なる文学の歌集やないねん。 政治的な告発の書やねん。
それは、あんさんが勝手に、そう信じているだけやん!
いや。。。わてが勝手にそう信じているだけやないねん。
他に誰が、そう言うてるん?
ちょっと次の文章を読んで欲しいねん。
ある朝、新聞をひろげると、三島由紀夫、阿部公房、石川淳、川端康成の四氏が、
---中国の文化大革命は学問の自由を侵す。
という声明文を発表したと報じていた。
昭和42年のことである。
(中略)
日中両国の相違点の一つの例として、四氏の声明文に登場していただきたいのである。
---学問芸術を終局的に政治権力の道具とするような思考方法に一致して反対する。
という言葉で、四氏の声明文は結ばれている。
学問芸術、文化を、政治権力と対立するもの、すくなくとも離れたものとみる考え方は、きわめて日本的である。
中国の政治理念は、『礼楽(れいがく)の治』であり、礼楽はすなわち文化のことなのだ。
---郁々乎(いくいくこ)として文なる哉(かな)。
と孔子が言ったのは、周の政治をたたえたのであり、政治すなわち文化であるという前提に立つ。
どちらがどちらを道具にするという関係ではなく、ひきはがせない血肉の関係と認識されていた。
(中略)
近代でもおびただしい数の文人が処刑されている。
魯迅の愛弟子で、『瘋人(ふうじん)』の著者であった柔石(じゅうせき)が銃殺されたのは1931年で、同年に『少年先鋒』によって文学者・李偉森(りいしん)も銃殺された。 『流亡』や『家信』など農村を舞台にした名作をかいた洪霊菲(こうれいひ)は1933年に北京で逮捕されて処刑された。 『乱弾』の著者である瞿秋白(くしゅうはく)が福建で銃殺されたのは1935年のことである。 終戦の翌年、昆明(こんめい)で暗殺された詩人・聞一多(ぶんいった)は、それが政治的な処刑であることを疑う者はいないだろう。
政治の体系はすなわち文化の体系であり、それだけに作家の活動は政治の核心にかかわり合っている。 どの作家も、命を賭けることぐらいは、ふだんから覚悟のうえなのだ。
東方の隣国の文人たちが、中国の文人をあわれんで声明文を出した。 遺憾ながら、大きな的はずれである。
中国では、文人が政治家であるということでも、文学は政治とつながっている。
(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)
199 - 207ページ
『日本人と中国人』 著者: 陳舜臣
2005年8月20日 第1版第1刷発行
発行所: 株式会社 恒文社
つまり、中国人にとって文学は政治とつながっているとあんさんは言わはるの?
そうやァ。。。
そやけど、狭野弟上娘子さんは中国人ではあらへん。
その通りや。
それやのに、あんさんはどうして中国人のことなどを持ち出してきやはったん?
あのなァ〜、よう考えてみィ〜なァ。 狭野弟上娘子さんは、これだけ激しい恋の歌を詠みはったのや。 そうであるならば、その熱烈な恋歌の受取人であるはずの中臣宅守の関わっている事件が歴史上の有名な事件であるに違いない。 少なくとも歴史に記録されている事件やと、わては思うたのや。 ところが、どのように調べても中臣宅守の関わっている事件が見あたらへん。 それなのに事件とはまったく関わりがないと思われる狭野弟上娘子さんの熱烈な恋歌だけが万葉集に掲載されてるねん。 めれちゃんは、おかしいと思わへんか?
そうでんなァ〜。。。 そう言われてみると確かに腑に落ちないところがありますわ。
そうやろう!?
。。。で、あんさんは、どうなってると思いはったん?
そやから、『万葉集』の編者である大伴家持が詠んだのやがな。
狭野弟上娘子さんの名前を借りて家持さんが詠みはったん?
わては、そう推断したのや。
そやかてぇ、大伴家持さんは中国人ではあらへん。
あのなァ〜、この当時の役人や歌人には渡来人の子孫がようけい居るねん。
その根拠は。。。?
次の文章を読んでみィ〜なァ。
(すぐ下のページへ続く)