萌える恋歌の裏に(PART 3 OF 4)
平城京は人口の三分の一が
外国人の国際都市だった!?
現代は国際化社会とよくいわれるが、奈良時代の都だった平城京は、現代の東京も横浜も神戸もびっくりの国際都市だった。 なんと、人口の三分の一ほどが外国人だったというのだ。
平城京は、100万人の人口をかかえる国際都市だった唐の長安(ちょうあん)を手本につくられ、東西4.3キロメートル、南北4.8キロメートルの大きさがあった。
住民構成に関するはっきりとした資料はないが、平安時代の『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』では、京都の平安京内に本籍を持つ氏のうち、三分の一近くが渡来系の氏族であったことがわかり、平城京の場合でも、その割合は似たようなものだったろうと推定される。
これら渡来人には、外交や貿易などのため、唐や新羅(しらぎ)や渤海(ぼっかい)からやってきた人々もいれば、もっと古い時代に百済や高句麗からやってきた人々の子孫もいたと思われる。
(中略)
渡来系氏族とはちょっと異なる外国人としては、唐からやってきて日本の役人になった李元環、波斯人(はしじん:ペルシャ人)だったといわれる李蜜翳のほかにも、ペルシャ人がシルクロードと唐を経由して日本に渡来したという話はいろいろ伝えられており、正倉院御物(ぎょぶつ)にペルシャの工芸品が多いのも、ペルシャ人が日本にやってきていたからではないかともいわれている。 また、僧侶たちも、唐はもとより、インドやインドシナ出身の者もいる。
(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)
18 - 19ページ
『歴史で読み解く日本地理』
著者: 河合敦
1999(平成11)年9月8日 第1刷発行
発行所: 東京書籍株式会社
なるほどねぇ〜。。。当時の都の平城京に住んでいる人には渡来人がようけい居りましたのやなァ〜!? そやけど、大伴家持さんが中国人だったという確証はありまへんのやろう?
もちろん、わては大伴家持さんが中国人だったと言うつもりはないねん。 そやけど、中国人の影響を強く受けとるねん。
どないなわけで。。。?
大伴家持の家庭教師が山上憶良(やまのうえのおくら)やったからやァ。 この事について、わてはすでに記事を書いておるねん。
この大伴家持と言う人は歌人と言うよりも政治家、あるいは政治評論家と呼んだ方がこの人の人物像をより的確に表現する事ができると僕は思いますね。
なぜなら、この人物の経歴を見てみると実に良く分かりますよ。
“藤原政権”に反抗的だった人で、そのために都から追放されたこともある人です。
大伴 家持 (おおとも やかもち)
養老2年(718年) - 延暦4年8月28日(785年10月5日)
奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。
『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。
天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。
この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。
橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画し立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。
宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。
延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。
SOURCE:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
つまり、大伴家持は章子さんのような“人道的”な立場から天智天皇の政策にも批判的であったし、後の藤原政権に対しても批判的だったわけです。
この大伴家持が子供の頃、家持の家庭教師をしていたのが、誰あろうこの山上憶良なのです。
山上憶良(やまのうえのおくら)
斉明天皇6年(660年)頃に生まれた。
天平5年(733年)頃に亡くなったとされている。
奈良時代初期の歌人。
万葉歌人。従五位下。
下級貴族の出身
中西進ら文学系の研究者の一部からは百済系帰化人説も出されている。
姓は臣(おみ)。
702年の第七次遣唐使船に同行し、唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する。
帰国後、東宮侍講(皇太子家庭教師)や、国司(県知事)を歴任。
筑前守(福岡県知事)在任中に、太宰府長官として赴任していた大伴旅人と親交があり、「筑紫歌壇」を形成。
また、旅人の子、家持の家庭教師を引き受ける。
仏教や儒教の思想に傾倒していたため、死や貧、老、病などといったものに敏感で、
かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。
そのため、官人という立場にありながら、
重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など
社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、
当時としては異色の社会派歌人として知られる。
抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。
代表的な歌に『貧窮問答歌』、子を思う歌などがある。
万葉集には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。
SOURCE:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大伴家持は、この山上憶良から強い影響を受けているわけです。
万葉集の編集長として山上憶良の歌を78首載せた事からもそのことが良く伺われます。
つまり、大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけです。
でも、現実には天智天皇の政策を見れば分かるように、庶民は決して人道的には扱われておらず、防人は“捨て駒”のように扱われていた。
僕はすでに何度も書きましたが、『万葉集』は“政治批判の書”であると見ている訳です。
それは、今述べたように大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけですよね。
しかも、大伴家持自身、当時の藤原政権に反抗的だったということからも分かるように、
大伴家持が『貧窮問答歌』を載せた理由には、政治告発の意味があると僕は見ているわけですよ。
ところが藤原政権は、全く当時の庶民の生活には無関心だったわけです。
山上憶良の『貧窮問答歌』など完全に無視されましたよ。
その証拠が平安時代の庶民の実態です。
“平安時代”なんて誰が命名したのか?
けっして平安ではなかった!
いわば地獄時代だった。
ここで書くとさらに長くなるので、関心のある人は次の記事を読んでくださいね。
■『平安時代は決して平安ではなかった』
(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)
『万葉集の謎と山上憶良』より
(2006年7月1日)
歴史家の中には山上憶良が百済系帰化人である可能性も強い、と言っている人もおるくらいなのや。
つまり、大伴家持は唐から帰ってきた山上憶良の影響を受けて当時の藤原氏を告発するために、狭野弟上娘子に成り代わって告発のための歌を詠んだと。。。?
そう言う事になるねん。
何らかの歴史的事実に基づいて
作られた虚構の歌で、
実際にやり取りされたものではない、
という可能性もある
判りましたわ。 そやけど、その“歴史的事実”って何やのォ〜?
(すぐ下のページへ続く)