シルヴィーとデヴィ夫人(PART 1)
ケイトー...デヴィ夫人ってぇ誰なの?
あれっ。。。シルヴィーは1965年までインドネシアに居たんだろう?
そうよ。
だったらデヴィ夫人を知っているだろう?
聞いたことないわ。
あのねぇ〜、デヴィ夫人は日本では結構有名なんだよ。 シルヴィーも名前ぐらいは聞いたことがあるんじゃないの?
ないわ。。。インドネシアで生まれた人なの?
シルヴィーはマジで知らないようだね。 インドネシアでの名前はRatna Sari Dewi Sukarnoというだよ。
あらっ。。。ファミリーネームがSukarnoねぇ!?
そうだよ。。。スカルノ大統領の第3夫人だよ。
デヴィ・スカルノ
デヴィ・スカルノ(Dewi Sukarno)
1940年2月6日生まれ。
日本生まれでインドネシア国籍の文化人、タレント、コメンテーター。
インドネシアのスカルノ元大統領第3夫人。
本名・インドネシア名:ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ(Ratna Sari Dewi Sukarno)
旧名・日本名:根本 七保子(ねもと なおこ)
通称はデヴィ夫人。
東京市麻布区霞町(現・東京都港区西麻布)出身。
父は霞町界隈の大工であり、弟が一人いた。
スカルノ大統領との間に生まれた一人娘・カリナは、2005年11月26日にオランダで米系大手金融機関シティバンクの欧州・中近東・アフリカ地区CEOフレデリック・シーガスと挙式している。
15才だった1955年、新東宝制作の映画『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(主演:左幸子、香川京子、池内淳子)にエキストラ出演したことがある。
映像は現存し(モノクロ映画)、近年でもテレビ番組で出演シーンが紹介されたことがある。
引きで撮られているが、本屋で立ち読みをしている制服姿の女子学生役で、セリフはないが姿が確認できる。
貧しい家計を楽にするため東京都立三田高等学校定時制部を中退後、赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働く。
1959年、19歳のときに、インドネシアへの日本政府の開発援助に伴い「東日貿易の秘書」として、スカルノ大統領のもとに送り込まれた。
この一件に当時「昭和のフィクサー」と呼ばれた児玉誉士夫が関わっていたとされる。
スカルノ当時の日本外交や資金援助の取り付け等をスカルノ大統領は非常に重要視していた。
インドネシアに渡って数年は愛人の一人であったが、語学などの熱心な勉強態度が認められ、1962年にスカルノと正式に結婚。
4人の夫人の内の第3夫人になる。
スカルノとの結婚以降は、インドネシアへの経済援助(ODA)や、日本への資源輸出などに積極的に関わった。
当時の池田勇人首相とスカルノをつなぐ仲介役を務めたという。
スカルノ大統領と周恩来首相と共に(1964年)
ムルデカ宮殿(Merdeka Palace in Jakarta)
しかし、同時期に実弟の八曾男が自殺し、それを伝え聞いた彼女は「何時までも心を離れない悲しいトラウマになっている」と告白し、後にジャカルタの宮殿の一つに実弟の名をつけた。
この宮殿はのちに接収され軍事博物館になっている。
しかし3年後の1965年9月30日に起きた軍事クーデター、いわゆる9月30日事件でスカルノが失脚。
代わってスハルトが大統領となった。
デヴィ夫人はインドネシアの日本大使館に亡命を希望したが、国際的立場上の理由で断念。
スカルノ大統領の第二夫人を除く夫人は皆、大統領のもとを離れ逃げ切った。
スカルノと来日した時には、大映スターであった本郷功次郎とのロマンスが発覚。
それをスカルノが止めたというエピソードがある。
スカルノの他界後には度々、来日。
当時の津川雅彦とのロマンスは有名で週刊誌のインタビューにおいても、恋人同士であることを堂々と告白。
「津川さんの素敵なところは臭い台詞でも平気で女性を褒めることが出来る、日本人離れしている点」といった趣旨発言をしてもいたが、その恋も長続きはしなかった。
スカルノ大統領はクーデターを予期し、以前よりインドネシアからスイスへ巨額の資金を確保していたとささやかれるものの、1970年のスカルノ死去時にスカルノ家、ならびにインドネシア政府から財産の相続の権利や子供のスカルノ一族としての地位などを喪失し、第三夫人としての資産は与えられなかったという噂があるが、実際には死去時に遺産が与えられたという説もある。
いずれにしてもその後のインドネシア政府の方針により、第三夫人としての遺産分与が行われた。
『東洋の真珠』、社交界の華とも呼ばれたというその美貌と教養で多くの要人らを魅了し交友をもったという。
1980年には、インドネシアへ戻り石油関連事業を興した。
しかし、実際にはスカルノ体制によるインドネシアの世界的な孤立により、夫人としての外交的立場を失っていたという。
また、日本政府や日本の企業財閥側もクーデターで失脚したスカルノのデヴィ夫人を擁護することはなかったとされる。
1991年にアメリカのニューヨークへと移住。
ここからインドネシアの第一線から退き、その後の政変や第一夫人・第二夫人を中心とした政治の動乱には巻き込まれることもなく、日本に帰国し現在に至っている。
1992年1月2日にアメリカ合衆国のスキー・リゾート地、コロラド州アスペンで、セルヒオ・オスメニャ第四代フィリピン大統領の孫娘のMinnie Osmenaをワイングラスでけがをさせて傷害罪で逮捕され、禁固60日の実刑判決が出て、34日間収監される。
動機は、数ヶ月前スペインのイビサ島でのパーティに於いて、Minnie Osmenaが「フィリピン副大統領になる意志がある」と発表し、デヴィ夫人が吹き出したことから2人の関係が悪化したため。
後に「刑務所での生活は学生寮のようで楽しかった」と語った。
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
写真はデンマン・ライブラリーより
確かに日本人の女性が大統領の夫人になったというような話を聞いたことがあったわ。 でも、私はまだ小さかったから名前までは覚えてないわ。
うん、うん、うん。。。確かに1965年の動乱で、シルヴィーは大統領の第3夫人どころではなかったんだろうね。
そうよ。。。私たち家族は生きられるかどうかの瀬戸際(せとぎわ)だったのだから。。。
大変だったんだね。
オランダへ脱出するまで子供心に不安でブルブル震えていたわ。
1965年の動乱(9月30日事件)
インドネシアはボルネオ島全域の領有を主張して、マレーシア領へ侵入するなど、一触即発の事態となった。
これは1964年に領有を主張するフィリピンも含めた3者が東京で会談するなどで、現状維持で落ち着いた。
この対決政策によって、インドネシアはアメリカとIMFからの経済援助を停止され、国際社会から孤立していった。
スカルノ大統領は急速に中国に接近し、そして1965年1月7日、国連を脱退した。
さらに1965年の独立記念日(8月17日)には、世界銀行とIMFからも脱退した。
そのようにして対外政策がすすんでいるあいだにも、インドネシア国内の経済状態は悪化し、インフレによる物資高騰は民衆の生活を苦しめた。
こうした状況に国軍主流派や一部の政党政治家、経済テクノクラートらは危機感を強め、スカルノ大統領と共産党に対する不満が高まっていった。
このように緊張した政治環境の中で発生したのが9月30日事件だった。
この事件は、1965年9月30日深夜から翌未明にかけて、共産党シンパの国軍部隊と、共産党傘下の組織が国軍幹部の6将軍を殺害したことに端を発する。
陸軍戦略予備軍司令官だったスハルトがこれをすぐに鎮圧したため、左派勢力による政権奪取は失敗し、クーデター未遂事件として終わった。
共産党に肩入れしていたスカルノ大統領は苦しい立場に追い込まれ、事態を回復するための一切の権限をスハルトにあたえることになった。
これを受けてスハルトは共産党員およびそのシンパを殺害、拘束し、国内の左派勢力を物理的に解体した。
東南アジアで最大規模を誇ったインドネシア共産党が壊滅したことは、国内政治のみならず、冷戦期におけるこの地域の勢力図を一変させた。
その後、スカルノ大統領は事件への関与を疑われるきびしい立場に追い込まれ、国軍が煽動する反スカルノの民衆運動によって辞任への圧力をうけた。
1967年3月、スカルノは終身大統領の地位を剥奪され、1968年3月、スハルトが第2代大統領として選任された。
また、1966年9月にインドネシアは国連に復帰した。
『波乱の半生(2011年4月29日)』より
考えてみるとデヴィ夫人も1965年の動乱では被害者だったんだよ。
確かにそうね。。。でも、「玉の輿」に乗って、いい思いをした時もあったんじゃないの?
うん、うん、うん。。。いい時もあっただろうし、惨めな思いに駆られた時もあったんだろうね。
。。。で、どうしてまた1965年の動乱の事など持ち出してきたの?
太平洋戦争後の世界の動乱を眺めていると、どういうわけかアメリカが絡(から)んでいるのですよ。
マジで。。。?
うん。。。まず間違いないよ。
1965年の動乱にアメリカが絡んでいたという証拠でもあるの?
あるんだよ。 シルヴィーも興味があるだろうから次の小文を読んでみたらいいよ。
9.30事件とCIA
スハルト元大統領がスカルノ政権から政権奪取するきっかけとなった1965年の9.30事件のあと、インドネシア全土を巻き込んだ共産主義者一掃キャンペーンに、米国政府とアメリカ中央情報局(CIA)が関与し、当時の反共団体に巨額の活動資金を供与したり、CIAが作成した共産党幹部のリストをインドネシアの諜報機関に渡していたことを記録した外交文書が、米国の民間シンクタンク・国家安全保障公文書館によって公表された。
文書は2001年4月に機密指定を解除された1965年から1966年の米政府の外交文書で、スカルノ元大統領によるマレーシアと米国への対決政策(1964年)、9.30事件当日から1966年3月までの間、ジャカルタ駐在の米国大使などから当時のジョンソン大統領、国務省などに宛てた書簡、公電などのほかマレーシア、シンガポール、フィリピン情勢に関連する約900ページに及ぶ記録や注釈が含まれている。
9.30事件の直後から、「ソロ川の水が赤い血に変わった」と言われるほど共産党狩りの犠牲者は激増したが、1966年4月15日、米国大使館は、東と中部ジャワで「毎日50人から100人の共産党員が殺害されている。
その数は10万ないし100万人に近い数字とされるが真相はわからない。
しかし、マスコミに聞かれた場合、なるべく低い数を発表するのが賢明だ」と報告した。
その後、1970年には10万5,000人とするCIA報告が記録されている。
これらの文書を分析した国家安全保障公文書館は、CIAの機密文書が抹消されている部分を取り上げ、米政府が反共キャンペーンを支援したことをCIAが隠そうとした事実を指摘している。
出典: 「スハルト」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あらっ。。。本当に裏でアメリカ政府とCIAが動いていたのね! でも、なぜ?
アメリカの国益になるからですよ。
どういうわけで?
あのねぇ〜、次の写真でも分かるように1964年頃、中国がスカルノ大統領に接近していた。
(すぐ下のページへ続く)