真理とは狸とイタチの化かし合い(PART 3 OF 4)
乙巳の変
(いっしのへん)
板蓋宮(いたぶきのみや)
における暗殺の場。
太刀を振り上げているのが
中大兄皇子(後の天智天皇)、
弓を手にしているのが中臣鎌足。
645年6月12日、上の絵に示したように、蘇我入鹿は中大兄皇子と中臣鎌足によって惨殺されます。
最近の調査で、この事件は皇極天皇の内裏(住居)の庭で起きたことが分かっています。
蘇我石川麻呂は蘇我入鹿と共に宮廷に入ります。
入鹿はどこへ行くにも常に剣を身につけていました。
この日、鎌足が命じた従者(後世の狂言に出てくる太郎冠者のような者)が面白おかしく
「御腰の太いものを頂戴いたします」と言ったので、
つい吹き出してしまい、剣を渡してしまったのです。
天皇の前には、古人大兄皇子、蘇我入鹿、蘇我石川麻呂の3人が進み出ました。
かなり離れたところには長槍を持った中大兄皇子(20歳)、
弓矢を持った中臣鎌足(32歳)、それに2人の刺客、佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)と葛城稚犬養連網田(かずらぎのわかいぬかいのむらじあみた)が隠れていました。
石川麻呂が上表文を読み始めたら刺客が飛び出して入鹿を斬りつけ、これを合図に中大兄皇子と中臣鎌足が援助することになっていたのです。
やがて大極殿で石川麻呂が上表文を読み始めます。
しかし、どうしたわけか何も起こりません。
実はこの時、2人の刺客は入鹿を恐れて飛び出せなくなっていたのでした。
計画が狂ったことで、にわかに恐怖がこみ上げてきて石川麻呂は声も体も震え始めます。
その様子を蘇我入鹿が見て不審に思い声をかけます。
「どうした?なぜそんなに震えているのか?」
「あの、。。。帝の前ですので、その。。。つい緊張してしまって。。。」
これはやばいと思い、その瞬間、柱の陰に隠れていた中大兄皇子が剣を抜いて入鹿の頭から肩にかけて斬りかかります。
子麻呂が足を斬りつけ、鎌足は弓を構えました。
「私に何の罪があるのか」と叫ぶ入鹿に中大兄皇子は答えます。
「山背大兄皇子を殺して天皇の力を衰えさせようとしている」
目の前で一部始終を見ていた中大兄皇子の母、皇極天皇はこの時入鹿を助けようともせず、驚きと怖さで奥に立ち去ってしまいます。
子麻呂と犬養連網田がさらに入鹿を斬りつけ、やがて入鹿は息絶えたのでした。
入鹿の死体は宮の外に放り出され雨に濡れてまま放置されました。
しかし、上の絵をよーく見てください。
実際には庭で殺されたようですが、江戸時代に描かれた上の絵では、入鹿はよほど無念であったと見え、
彼を助けようともせずに奥へ引き下がってしまった皇極天皇を追うように、
切られた首が宙を飛び御簾(みす)に喰らい付いています。
なぜか?
このへんの事については、このページ (知らぬ顔を決め込む皇極天皇) で説明しています。
読んでください。
新しいウィンドーが開きます。
『日本書紀』に
隠された真実の声
この事件の後で、現場に居合わせた古人大兄皇子は人に語って言います。
「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」
つまり、「韓人が入鹿を殺してしまった。ああ、なんと痛ましいことか」
しかし、「韓人」とは一体誰をさして言ったのか、
ということでこの事件に関する研究者の間では、いろいろな説が出ています。
入鹿を殺したのは、中大兄皇子です。
その計画を立てたのが中臣鎌足。
それに手を貸したのが佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田です。
ところが、この中には従来の古代史研究者の間で「韓人」と信じられている人は居ません。
(korea03.gif)
「韓人」とは、もちろん韓(から)からやって来た人のことです。
上の地図で見るとおり、紀元前1世紀の朝鮮半島には馬韓・辰韓・弁韓という3つの「韓国」がありました。
これらの国は、国といっても部族連合国家のような連合体です。
大まかに言えば、このうち辰韓と弁韓は紀元前57年に融合して新羅になります。
一方、馬韓は百済になります。
要するに「韓人」とは朝鮮半島の南部からやって来た人をそのように呼んだわけです。
従って、この当時で言えば百済か新羅からやって来た人のことです。
実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。
少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。
中臣という姓は日本古来の古い家系のものですが、この御食子は婚姻を通じて中臣の姓を名乗るようになったようです。
藤原不比等は当然自分の祖父が百済からやってきたことを知っています。
しかし、「よそ者」が政権を担当するとなると、いろいろと問題が出てきます。
従って、『古事記』と『日本書紀』の中で、自分たちが日本古来から存在する中臣氏の出身であることを、もうくどい程に何度となく書かせています。
なぜそのようなことが言えるのか?という質問を受けることを考えて、このページ(藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた) を用意しました。
ぜひ読んでください。
『日本書紀』のこの個所の執筆者は、藤原不比等の出自を暴(あば)いているわけです。
藤原氏は、元々中臣氏とは縁もゆかりもありません。
神道だけでは、うまく政治をやっては行けないと思った時点で、鎌足はすぐに仏教に転向して、天智天皇に頼んで藤原姓を作ってもらっています。
その後で中臣氏とは袖を分かって自分たちだけの姓にします。
元々百済からやってきて、仏教のほうが肌に合っていますから、これは当然のことです。
この辺の鎌足の身の処し方は、まさに『六韜』の教えを忠実に守って実行しています。
彼の次男である不比等の下で編纂に携わっていた執筆者たちは鎌足・不比等親子の出自はもちろん、彼らのやり方まで、イヤというほど知っていたでしょう。
執筆者たちのほとんどは、表面にはおくびにも出さないけれど、内心、不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうと常に思いをめぐらしていたはずです。
しかし、不比等の目は節穴ではありません。
当然のことながら、このような個所に出くわせば気が付きます。
不比等は執筆者を呼びつけたでしょう。
(yakunin5.jpg)
「きみ、ここに古人大兄皇子の言葉として『韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し』とあるが、この韓人とは一体誰のことかね?」
(yakunin3.jpg)
「はっ、それなら佐伯連子麻呂のことですが」
「彼は韓からやって来たのかね?」
「イエ、彼本人は韓からではなく、大和で生まれ育ちました。しかし、彼の母方の祖父が新羅からやってきたということです。何か不都合でも?」
「イヤ、そういうことなら別に異存はないが。しかし、君、古人大兄皇子は、実際、そんなことを言ったのかね?」
「ハイ、私が先年亡くなった大伴小麻呂の父親から聞きましたところ、はっきりとそう言っておりました。
中国の史書を見ると分かるとおり、歴史書を残すことは大切なことだから、古人大兄皇子の言葉としてぜひとも書き残してくださいということで、たってのお願いでした。
何か具合の悪いことでも?」
「イヤ、そういうことなら、そのままでいいだろう」
恐らくこんな会話が、編集長・藤原不比等としらばっくれた、しかし表面上はアホな顔つきをしていても、内心では反抗心の旺盛な執筆者との間で交わされたことでしょう。
執筆者の中にも気骨のある人がいたでしょうから、不比等と張り合って上のような狸とイタチの化かし合いの光景が見られたことでしょう。
この古人大兄皇子は上の聖徳太子の系譜で見るように、蘇我氏の血を引く皇子です。
蘇我入鹿とは従兄弟です。
また、中大兄皇子とは異母兄弟に当たります。
古人大兄皇子が次期天皇に目されていました。
しかし野望に燃える中大兄皇子のやり方を知っている皇子は、身の危険を感じて乙巳の変の後出家して吉野へ去ります。
中大兄皇子は、それでも安心しなかったようです。
古人大兄皇子は謀反を企てたとされ、645年9月に中大兄皇子の兵によって殺害されます。
これで、蘇我本宗家の血は完全に断たれることになったのです。
古人大兄皇子が実際に「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」と言ったかどうかは疑問です。
野望に燃える中大兄皇子の耳に入ることを考えれば、このような軽率なことを言うとは思えません。
しかし、『日本書紀』の執筆者は無実の罪で殺された古人大兄皇子の口を借りて、真実を書きとめたのでしょう。
「死人に口なし」です。
このようにして『日本書紀』を見てゆくと、執筆者たちの不比等に対する反抗の精神が読み取れます。
中大兄皇子と中臣鎌足にはずいぶんと敵が多かったようですが、
父親のやり方を踏襲した不比等にも敵が多かったようです。
中大兄皇子が古人大兄皇子を抹殺した裏には、鎌足が参謀長として控えていました。
この藤原氏のやり方はその後も不比等は言うに及ばず、彼の子孫へと受け継がれてゆきます。
後世、長屋王が無実の罪を着せられて藤原氏によって自殺へ追い込まれますが、
このやり方なども、古人大兄皇子が殺害された経緯と本当に良く似ています。
長屋王の変
729(天平元)年
「密かに左道(人を呪う呪法を行なうこと)を学んで国家を傾けようとしている」という密告があり、長屋王は謀反の疑いをかけられたのです。藤原武智麻呂らはただちに王の邸を囲みます。
もうこれではどうしようもないと観念した王は妻子と共に自殺したのです。
完全に濡れ衣を着せられたものでした。
藤原不比等の息子たちが光明子を聖武天皇の皇后にしたかったのですが、長屋王が邪魔だったのです。
それで王を亡き者にしようとしたのが、この事件の真相です。
結果として、藤原四兄弟の政権が確立しました。
一方、彼らが画策していた光明子を聖武天皇の皇后にすることにも成功したのです。
皇后は、天皇なき後臨時で政務を見たり、女帝として即位することがあり皇族でなければならないというのが古来からの慣例だったのです。
「養老律令」後談
律令の成立を見てゆくと、唐の新しい制度を取り入れて天皇を中心とする中央集権制度を確立するという姿勢が見えます。
しかし、これは中臣鎌足とその息子の藤原不比等にとっては「建前」、つまり表向きの理由であって、本心は天皇親政から
藤原氏が実権を持てるような政治機構を構築することにあったわけです。
これは、その後の歴史の進展を見てゆくともっとはっきりします。
(すぐ下のページへ続く)