真理とは狸とイタチの化かし合い(PART 2 OF 4)
『古事記』と『日本書紀』は
藤原氏が政権担当の正当性を
主張するために書いた史書
「でも、学校ではそんなふうに教わらなかったけれど。。。」
そんな呟きが聞こえてきそうです。
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天武天皇が『古事記』と
『日本書紀』を
編纂させたことになっているが…
現在、日本で一番古い書は、古事記ということになっています。
古事記が編纂されたのは和銅5年(712)、日本書紀は養老4年(720)です。
中臣鎌足(藤原鎌足)が亡くなったのが669年ですから、もうこの時代は、彼の息子の不比等【659(斉明5)〜720(養老4)】の時代です。
古事記は712年に成立した、と書かれている場合が多いのですが、実際には、天武天皇の時代(680年代前半)から書き始められています。
天武天皇は壬申の乱の後、諸氏に伝承される「帝紀(テイキ)」(天皇家の皇統譜)と「旧辞(クジ)」(古代の説話)をまとめて後世に残そうとしました。
もちろん、これには、理由があって、天武帝が自分の王朝の正当性をこの史書に盛り込もうとしたわけです。
当然一人ではできませんから、強力な手助けが必要になります。それが藤原不比等だというわけです。
しかし、私は、これは全く話が逆だと見ています。
つまり、天智天皇の右腕であった鎌足が、天武天皇に取り入るには、それ相応の実力(利用価値)を示さなければなりません。
そこで、鎌足の出自がものを言います。
つまり、百済出身であるということが、ここで役に立つわけです。
天武天皇は新羅派の統領です。
鎌足が天武帝と協力すると言うことは、百済派の勢力をそいで新羅派に百済派の一部を持ち込むことになるからです。
しかも、彼が「六韜(りくとう)」を愛読していたということを忘れるわけにはゆきません。
というのは、ここでも、彼は六韜の教えを実践しているからです。
『六韜』についてはこのページ (マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?)
を読んでください。
派閥抗争についてはこのページ (天智天皇は暗殺された) を見てください。
新しいウィンドーが開きます。
『古事記』と『日本書紀』
にはなぜ謎が多いか?
ところで、古事記が日本書紀よりも古いとすると、おかしな点がいくつかあるという人たちが居ます。
例えば、
どちらの書も天武天皇によって編纂作業が進められた歴史書なのに、日本書紀には古事記についての記述がまったく見当たらない。
また、古事記の内容には日本書紀よりも新しいものがある。
日本書紀には他の多数の書の引用が載っているので、他にも書があったことが分かるのだが、
古事記には日本書紀の本文と他の書をまとめて1つの話にした神話という形で載っている。
古事記の編纂者は後から作られた日本書紀の内容をどうして知っているのか?編纂者が同じだったからなのか?
また、風土記という書があり、元明天皇によって日本書紀と同じ年に成ったこの書の内容が、古事記にふんだんに引用されている。本当に、
日本最古の書は古事記なのだろうか?
私は、両方の史書を藤原不比等【659(斉明5)〜720(養老4)】が編集長として目を光らせていたと思います。
名目上の編集長は天武天皇の息子の舎人(とねり)親王です。しかし彼はむしろ発行人です。
当然のことながら、編集者同士の確執だとか、縄張り意識とか、ファクショナリズムとか、官僚主義だとか、そういった、もろもろのことが関係して、そういうことが、史書の内容にまで影響したはずです。
従って,両書をよく読んでゆくと、上で指摘されたような矛盾が、ところどころ顔をのぞかせるわけです。
これは、いわば、当然のことです。
先ず何よりも、天武天皇は、自分の王朝が正統である事を書いて欲しい。
藤原不比等は藤原氏が、日本古来からの古い氏族であることをこの両書に書き込もうとする。
しかしあまり無茶苦茶なことはできない。
なぜなら当然、編集者の中には、新羅とかかわりのある者、高句麗とかかわりのある者、百済と強い関係がある者、それぞれの思惑を抱えている者が混じっています。
何よりも、不比等が、親の七光りで、編集長になっていることを、内心、面白く思っていない連中がほとんどでしょう。
この編集者たちは、当然のことながら、当時の知識人、つまり、渡来人や帰化人、またその子孫が多かったはずですから、不比等の生い立ちもよく知っています。
このような状況の中で成り立った史書であれば、当然ながら矛盾する点も出てくるでしょう。
要は、そういうことを考慮に入れて読めば、嘘や虚飾を真実からより分けることができるはずです。
中国風史観に
こだわる執筆者たち
『大化の改新』がなぜ日本史の中で重要かというと、日本に中国風の律令国家を築く礎になったということになっています。
この『大化の改新』を行ったのは中大兄皇子であることはよく知られています。
しかし、元々この構想を持っていたのは、彼よりも中臣鎌足だったようです。
鎌足が亡くなると、彼の遺志を継いだのが、次男である不比等でした。
なぜ長男でなく次男なのか?と疑問に思う人が居るかもしれません。
実は長男の定慧(じょうえ)は暗殺されています。
生きていたら、不比等と共に相当な影響力を持ったことでしょう。
詳しいことはこのページ (藤原鎌足と長男・定慧) を読んでください。
大宝律令の施行令十一巻は代表責任者を天武天皇の息子の刑部(おさかべ)親王とし、実質的な編纂は藤原不比等が中心になって進めました。
700年(文武4年)に完成し翌年正式に年号を建て、大宝元年として大宝律令を施行したのでした。
唐の制度を真似しながらも、藤原不比等の眼目とするところは天皇親政から藤原氏中心の太政官制にあったようです。
大宝律令に引き続いて、藤原不比等は、もっと藤原氏と自分に都合のよいような「養老律令」を作ろうとします。
そのため、唐から帰ってきた若い留学生たちにこの仕事をやらせています。
矢集虫麻呂(やずめのむしまろ)、大倭国小東人(やまとのこあずまひと)、塩屋古麻呂(しおやのこまろ)、百済人成(くだらのひとなり)といったような人たちです。
この若い留学生たちは唐の新しい法律知識や最新の唐の政治情勢などを身に着けて帰ってきたのでした。
忘れてならない事は、これと平行して『古事記』と『日本書紀』の編纂も進められていたということです。
当然のことながらこの帰国留学生たちもこの両書の編集に加えられたでしょう。
ここで考えなければならないことは、この両書の編纂に携わった留学生や渡来人たちの史観です。
当時の日本には史観と呼べるようなものはまだ確立していませんから、これも中国の歴史書を参考にする他になかったでしょう。
むしろ中国で常識と考えられていた史観以外に持ちようがなかったと思われます。
では、この中国の史観というものは一体どのようなものだったのでしょうか?
中国ではこれまでの王朝を倒した新王朝の史官が前王朝の歴史を書くのが慣習になっていました。
結果として、現王朝の史官が現王朝の歴史を書くよりも事実に即した客観的な歴史を書いてきたのです。
つまり、歴史の偽造にこのような慣習によってブレーキがかかっていたことになります。
歴史書を書くときには勝手なことは書かないという「史観」が“史官”にはあったわけです。
六韜史観
『古事記』と『日本書紀』の編纂に携わった帰国留学生や渡来人は、先ず間違いなくこのような中国の史観に通じていたはずです。
ところが編集長として彼らを統括している藤原不比等の史観は全く彼らの史観とは違っています。
不比等の史観は、しいて言うならば“六韜史観”と呼ぶようなものです。
つまり自分の都合のよいように歴史的事実を書いてゆく史観です。
若い帰国留学生は編集長の指図に従って、不比等の言うように仕方なく書き直すことがあったかもしれません。
しかし、古参の渡来人たち、あるいは土着の豪族出身の史官の多くは、不比等が時々口を挟んで事実を編集長の都合のよいように書けという指示を苦々しく思ったことでしょう。
何よりも不比等が親の七光りで編集長になっているという事実がおもしろくありません。
しかも、勝手に事実をゆがめて書けというようなことを言う。
おそらく喧嘩になってやめていった人もいたに違いありません。
やめない人は、何とかして、事実を『古事記』と『日本書紀』の中に書き残そうと懸命に努力したに違いありません。
そういう努力が、我われの眼には“矛盾”であったり“謎”として文中に登場するわけです。
『日本書紀』の中に
隠された声
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これを読む読者の皆さん。
ぜひ、文中の矛盾に気づいてください。
私たちは、編集長の理不尽な要望によって歴史的事実を曲げて書かされています。
しかし、私は何とかしてこの文章の中に真実を書きとめたいと思っています。
100年先、いや、500年先、いや1000年先の皆さんが、もしこの歴史書を読んで、これが全部事実だなんて思い込まれると思うと私は全くいたたまれません。
また、やりきれません。
こんなことは中国の歴史書を見ればお分かりの通り、やってはいけないことなんです。
本当は、こんなことには、かかわりたくありません。
やめて行った人も居ます。
しかし、誰かがこの歴史書の性格について訴えないかぎり、誤った事実が後世に残されてしまいます。
わたしの努力は微力かもしれません。
しかし、最善を尽くして文中に真実が現れるよう努力したいと思います。
そういうわけですから文章中の矛盾や謎は、どうか真実の一端だと思って読んでください。
少なくとも、『日本書紀』を読むと、所々に矛盾や謎と思われるような箇所が顔を覗かせます。その時、上のような声が聞こえてくるような気がします。
しかし、ここで個人的な感想を述べていても仕方がないので、実際、そのような矛盾とはどのようなものなのか、具体的な例を挙げてお話しようと思います。
(すぐ下のページへ続く)