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日本人のルーツ(PART 1)

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日本人のルーツ(PART 1)
 
  

今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?
 
 

 
 
もちろん、日本人です。
そうじゃないと言うつもりなど、もちろん私にはありません。

しかし日本人の定義となると、大変に難しい。
おそらく、絶対にこれだ、という定義はないでしょう。
たとえば、私の場合、両親は共に日本で生まれて日本で育ちました。
私の知る限り、私の家系には、日本人以外の血は混じっていません。
しかし家系といっても、たどれるのは、せいぜい幕末までです。
子供の頃、仏壇のなかに首を突っ込んで一つ一つ位牌を手にとって、没年を確かめたことがあります。
もちろん、しかられました。
その時、安政何年というのを見た覚えがあります。

しかし誰が一体、私の体の中に、古代韓国人の血が混ざってないと断定することができるでしょう?
おそらく、私のこれまでの話を読んでくれていたなら、先ず間違いなく入っているだろうと思うのが自然です。
むしろ、95パーセントが渡来人の血で、残りの5パーセントがアイヌ系の原日本人の血だと私は結論付けています。

Kato Kiyomasa (kiyomasa.gif--187x187)



しかし、だからといって、私のことを、渡来系の日本人だと言う人は居ません。
前にも書きましたが、私の先祖は、加藤清正だと言ったところで、まともに信ずる人は居ないでしょう。
あまりにも古すぎて、血筋をたどるのは、先ず無理です。
家系図があったとしても、先ずそんなものは当てになりません。
日本では、全く血縁のない人でも、養子になって、家系図に載ることがありますから。
しかも、もっとひどいのになると、家系図を偽造したり、買ったりしましたから。

しかし、加藤清正は、1562年生まれです。
我われが、問題にしている日本古代から比べれば、まだ最近だといえるでしょう。
それでも古いと感じるのですから、呉人が日本へ呉服をもたらした、西暦200年代というのは、気の遠くなるような古い時代です。



しかし、呉という国は、上の地図に書き込んだように、その寿命は、せいぜい50年です。
日本の長い歴史の中では、ほんの一瞬というような短い間なのに、呉人たちは、日本の文化に大きな影響を残しているわけです。
そのことは前にも書いたように、漢字の読みの呉音というかたちで、日本語の中に消しがたい足跡を残しています。
しかも、呉人のことをすっかり忘れ去っても、『呉服』という言葉をいまだに使っているように、『呉』は日本語にすっかり定着しています。

これとちょうど同じように、その当時の呉人の血は、間違いなく我われの体の中に、流れているわけです。
50年と言えば、一人の人間の一生の長さです。
一人の呉人がやってきたぐらいでは、これほどの影響はないでしょう。
ということは、国が滅んだ後に、相当数の呉人が日本へやってきたはずです。
一体、幾人の呉人がやってくると、これほどの影響が日本に残るのか?
ちょっと考えてみてください。

聖徳太子が生まれるのは、この呉の国が滅んでから、約300年後です。
しかし、見逃してならないのは、この300年というのは、大陸はもちろん、朝鮮半島も、日本も含めて、激動の時代でした。
中国では、下の年表に示すように、西晋、東晋を経て南北朝時代に入ります。



隋が中国を統一するまでに、なんと、11王朝が起こっては滅びます。
しかも平穏に王朝が交代するというようなことはありません。
必ず戦乱がつき物です。
すると、当然のことながら難民が出ます。
これは何も、古代にかぎったことではありません。
ベトナムからの難民騒ぎを覚えているでしょうか?



サイゴン(現ホーチミン市)が無血陥落(1975年4月30日)してベトナム戦争は終わりました。
しかし、その後の迫害を恐れる者、よりよい生活や自由を求める者などが小船に乗って次々とべトナムをあとにします。
いわゆる「ボートピープル」と呼ばれる大量の難民の出現です。

漂流中を漁船や貨物船、タンカーなどに救助された難民が、1977年5月28日の37人を皮切りに、日本へもやってきました。
1989年以降はベトナム難民を装った中国人の偽装難民も出現し、同年9月には、鹿児島に回航した149人もの“難民”を収容する施設がなく、神戸に再回航するというような事態も発生しました。

現代においても、このような事態が出現するわけですから、古代において、しかも、もっと身近な、中国沿岸、あるいは朝鮮半島からの、たび重なる難民の数は、相当なものだったことが容易に想像されます。
280年に呉が滅んでから、663年に百済が滅びるまでの間は、おそらく、日本史上で最も渡来人が数多く日本へやってきた時期だったでしょう。

したがって、この時期に藤原鎌足が父親の御食子(みけこ)と共に、百済からやって来たとしても、まったく不思議ではありません。
むしろ、その方が、話はスッキリします。

 

藤原鎌足が百済から

やって来たという

確証があるの?



残念ながら、確証はありません。
しかし、それに近い状況証拠のようなものならあります。
このことはすでに述べましたが、重要なことなのでここにまた改めて書きます。
『続日本紀』の光仁天皇の天応元年(781)7月の項に、次のような記事があります。


右京の人正六位上栗原勝子公言す。
子等が先祖伊賀都臣(いかつのおみ)は、是中臣の遠祖、天御中主命20世の孫,意美佐夜麻(おみさやま)の子なり。
伊賀都臣、神功皇后の御世に、百済に使いして、彼の土の女を娶りて,二男を生み、名づけて本大臣、小大臣といふ。
はるかに本系を尋ねて聖朝に帰す。
時に美濃国不破郡栗原の地を賜ひて以て居らしむ。
その後、居に因って、氏を命じて、遂に栗原勝の姓を負へり。
伏して乞らくは、中臣栗原連を蒙り賜はむと。
是に於いて子公等男女十八人請に依って、改めて之を賜ふ。


ここに中臣栗原連の先祖として中臣伊賀都臣が顔を出します。
そして、その人を説明して言います。
この伊賀都臣(いかつのおみ)は、中臣の遠祖にあたる天御中主命20世の孫,意美佐夜麻(おみさやま)の子であると。
要するに、神代の天御中主命を持ち出してきて、ここに、中臣氏が、古来から、日本に土着した氏族であることを印象付けています。

しかし、すでに述べたように、古事記において、中臣氏が、いかに古い氏族であるか、しかも天皇家と並ぶほど古い家系であるか、と言う事を、それとなく述べています。
でも、具体的にどのようなことをしたかと言うことは、書いてありません。
書きたくてもかけなかったと言うのが真相でしょう。
変なことを書くと嘘がばれますから。
それでも、そこ、ここで、それとなく、小出しに、日本古来の氏族であることを述べています。
ほとんど、くどいくらいに繰り返されています。
20世と言うと、一世代が20年とすると400年、30年とすれば、600年です。
仮に私が、「400年前の私の祖先は加藤清正です」と言ったら、あなたは信じますか?
多分怪しんでかかるでしょう。
しかし、誰が一体、確信を持って、私が、加藤清正の子孫ではないと言いきることができるでしょうか?
私の体の中には、400年という年月の間に加藤清正の子孫の血が、一滴か二敵ぐらいは混じっているかもしれません。

上の記述で延べていることは、言ってみれば、そのような程度のことです。
それを、わざわざ、書いているわけです。
もちろん、それが、『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』の編集に携わってきた藤原氏の狙いです。


ここまで書けば、もう大丈夫だろう。
我われが日本古来から連綿と続いている氏族であると認めてくれるだろう。
そろそろ本当のことを書いても、
我われが、百済からやってきたとは、もう誰も思うまい。


そういう作為が感じ取れます。


伊賀都臣、神功皇后の御世に、百済に使いして、その土地で現地の女と結ばれて、子供を作った。
その子供たちがやがて成長して、日本にやってきた。
その者たちがやがて中臣栗原連と名乗るようになったと。


さらりと述べています。
注意して読まないと、読み飛ばしてしまいそうな箇所です。
しかし、この意味は非常に重要だと私は思います。
なぜか?
それは、編集に携わった藤原氏が、彼らの祖先、藤原鎌足あるいは、彼の父、御食子(みけこ)が百済からやってきたということを、それとなく示唆しているからです。

中臣氏は古くからいた渡来人であったでしょう。
しかし、藤原氏が中臣氏と同じように古い渡来人であったとはとても考えにくい。
一番可能性があるのは、この当時、日本へ渡来して婚姻に因って、中臣氏の中へ入っていったということです。
それを、日本書紀では、あたかも、自分たちが中臣氏と同じ程度に古い氏族であるように書こうとしている意図が読み取れます。

しかし結局は藤原氏という形で中臣氏とは袖を分かちます。
いったんは中臣氏の中に溶け込もうとしましたが、もともと、仏教の影響を受けてきましたから、古来の中臣氏とは水が合いません。
しかも、仏教を取り込まないことには政権を保てません。
そのことは、蘇我氏を見ていて、鎌足は十分知っていたはずです。

いろいろなことをでっち上げて、『教え』を書いたつもりでも、よく読めば、その中に、真実の破片が見えてきます。
『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』という書物は、もちろん、史実も書いてあります。
しかし、藤原氏の都合のよいように、かなりの事実がゆがめられて伝えられています。
ここのところを注意して読む必要があるのではないかと思います。

 

藤原鎌足は

「六韜(りくとう)」を

愛読していた。



この六韜は、周の太公望の撰とされているので、かなり古いものと考えられます。
しかし、現存するものは、それに仮託して3世紀以降に作られた偽作であるという説もあります。
また三略(さんりゃく)と呼ばれる兵書があり、これは3巻からなる兵書です。
これも周の太公望の撰で、黄石公(こうせきこう)が土橋の上で漢の張良に授けたと伝えられています。
しかし、これとても、後世の偽撰書だとする学者が居ます。
日本には遣唐使上毛野真備が初めて伝えたということになっており、「六韜」と併称して、「六韜三略」と呼ばれることが、よくあります。 

「三略」が「六韜」と併称して、「六韜三略」と呼ばれること、また、「三略」が日本へは、遣唐使上毛野真備によって初めて伝えられた、ということを考え合わせれば、「六韜」がそれほど早い時期に日本へ紹介されたとは思えない。
遣唐使が始まったのは、舒明天皇2年(630)ですから、藤原鎌足の生まれた年を614年とすれば、日本へ紹介されたのが遅すぎるのではないか?
むしろ、鎌足が百済にいる頃から愛読していたと考えたほうが、筋が通ります。

漢字については、すでに触れましたが、漢音、呉音という読み方があることから、藤原鎌足の時代には、漢字がすでに日本人の中に入り込んでいたでしょう。
しかし、この当時はまだ学校というものがありません。
では、日本人はどのようにして漢字を習得していったのか?
先ず間違いなく、渡来人や帰化人から習ったでしょう。
それから、遣隋使、あるいは遣唐使として中国へ行って勉強してきた人から、個人的に習得しているはずです。

したがって、どういうことが言えるかといえば、日本人の中で漢字を知っている者はそう多くはない。
せいぜい大和朝廷に役人として雇われている者、しかも、文書にかかわる仕事をしている者に限られていたでしょう。
すると、数はかなり限られてきます。
渡来人や帰化人の数ほど多くはないはずです。
むしろ、日本人に漢字を習わせて、役職に就けるよりも、渡来人や帰化人に日本語を習わせて、役職に就けるほうが、手間、暇がかからなくて、話は簡単です。
いずれにしても、外国からやってきた人たちは、日本語を勉強しないと生活してゆけないわけですから。

藤原鎌足が生きていた時代というのは、このような状態だったわけです。
しかも、「六韜(りくとう)」という書物が、日本へ紹介されていたとしても、まだ日が浅い。
渡来人や帰化人のすべてが「六韜(りくとう)」を知っていたとはかぎりません。
このような時に、藤原鎌足は「六韜(りくとう)」を愛読していたわけですから、彼が百済からやってきた人だと考えたほうが筋が通ります。
鎌足が日本で生まれたとするならば、彼の父親、御食子(みけこ)を百済から渡ってきた人と考えないと、藤原鎌足が「六韜(りくとう)」を愛読することができた、とは到底考えにくい。

 

日本で一番古い書は?



現在、日本で一番古い書は、古事記ということになっています。
古事記が編纂されたのは和銅5年(712)、日本書紀は養老4年(720)です。
鎌足が亡くなったのが669年ですから、もうこの時代は、彼の息子の不比等【659(斉明5)〜720(養老4)】の時代です。

712年に成立と書かれている場合が多いのですが、実際には、天武天皇の時代(680年代前半)から書き始められています。
天武天皇は壬申の乱の後、諸氏に伝承される「帝紀(テイキ)」(天皇家の皇統譜)と「旧辞(クジ)」(古代の説話)をまとめて後世に残そうとしました。
もちろん、これには、理由があって、天武帝が自分の王朝の正当性をこの史書に盛り込もうとしたわけです。
当然一人ではできませんから、強力な手助けが居る。それが不比等だというわけです。

しかし、私は、これは全く話が逆だと見ています。
つまり、天智天皇の右腕であった鎌足が、天武天皇に取り入るには、それ相応の実力(利用価値)を示さなければなりません。
そこで、鎌足の出自がものを言います。
つまり、百済出身であるということが、ここで役に立つわけです。
しかも、彼が「六韜(りくとう)」を愛読していたということを忘れるわけにはゆきません。
というのは、ここでも、彼は六韜の教えを実践しているからです。

日本史の時間に、私は、こんな風に教わりました。


天武天皇は壬申の乱の後、歴史をまとめ、後世に残そうとした。
それで、稗田 阿礼(ヒエダノアレ)にそれを誦み習わせた。
しかし、それだけで終わっていた。
その後、持統・文武両天皇を経て、元明天皇の時代に、太安万侶(オホノ ヤスマロ)に命が下った。
安万侶はそれにより阿礼の誦習した事柄を編集して古事記を作成した。
そして712年に元明天皇に献上した。


ここで忘れてはならないことがあります。
藤原不比等の以前の名前は、史(ふひと)なのです。
不比等は、これ以外にも百済流の名前を持っていたはずです。
いずれにしても、この史(ふひと)という名前は、普通の名ではなく、むしろ彼の若い頃の役職名を表すものだったでしょう。
つまり歴史編纂に携わっている者という意味です。
日本史の先生はこんな風に説明したものです。


 (すぐ下のページへ続く)





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